一縷の望(秦氏遣唐使物語)
この会議の後延暦十二(七九三)年、和気清麻呂様は陛下(桓武天皇)に太秦・葛野周辺への遷都と宮城を秦河勝様、朝元様が住んでいた舘にすることを提案し、先に述べた持論を展開されたのでした。陛下はこの提案に喜んで自ら下見をし、前回と同じ様に大納言の祖父(藤原小黒麻呂)や左大弁紀古佐美様らを遣わして葛野を調査させたのです。その調査に陰陽頭の藤原刷雄様も同行させ、陰陽道的に見ても霊的防御に優れていることを保証させたのでした。この様に慌ただしく許可の手続きを取り、いよいよ翌年の遷都が本決まりになったのです。その騒ぎの中で、しばらく我らの不破内親王退治のことはそのままにされ、そんなことを知らぬ陛下は、独自に早良親王の怨霊対策を推し進めておりました。遷都もその一環ですし、鎮魂の為の儀式もなされましたが、詳細を語るのはまたの機会に譲りたいと存じます。
第五章 阿弖流為(あてるい)と坂上田村麻呂
ねぶた流れろ、忠臣(まめのは)とまれ、ださはせよだせよ(伝 坂上田村麻呂作)
この歌は、これからお話する蝦夷の乱で活躍する坂上田村麻呂様の歌と伝わるもので、八甲田山に籠る蝦夷をおびき寄せた時に、兵士に唄わせた歌と伝わっております。陸奥のことは、直接関係ないかとも思われますが、我が秦一族の遠縁の者共のことでもあり、祖父小黒麻呂の特別な思いも有り、真魚様の出身氏族の佐伯は元々蝦夷だったことも併せて、
その顛末だけは語っておきたく存じます。
延暦元(七八二)年、大伴家持様が陸奥へ赴任中に亡くなられた頃、陸奥の首領は胆沢(いさわ)の伊佐(いさ)西古(しこ)様と云う者でしたが、これに対し朝廷は延暦七(七八八)年、参議大弁正四位下春宮大夫(早良親王派を意味する)中衛(ちゅうえ)中将紀古佐美様を征東大使に任じ、家持様に代わって大規模で前と違って軍律の厳しい軍を編成したのでした。
翌年、やがて陸奥の新たなる首領大墓(おおつか)阿弖流為様の根拠地である胆沢(いさわ)の入り口にある衣川に、朝廷軍は駐屯したのです。しかし陸奥の蝦夷の力を恐れ、それ以上身動きが取れずにおりました。五月末、その報告に業を煮やした陛下(桓武天皇)が軍の動かぬのを叱責し、行動を起こさざるを得ない状況になってしまったのです。
その阿弖流為様ですが、渡来した渤海(今の北朝鮮の一帯)人の父と蝦夷の母を持ち、宝亀十一(七八〇)年の宝亀の乱で若くして父を失い、元々大墓の族長として伊佐西古様の軍に加わっていたのです。少し前のお話ですが、しばらく朝廷軍の侵攻が無かったので兵達は退屈し、皆で車座になって相撲をしようと云うことになりました。伊佐西古様もいらっしゃって見物なさり、盤具(いわとも)のやはり若き族長母礼(もれ)様が車座の真ん中に立ち、その巨体を利用して挑んでくる敵を次々に投げ飛ばしておりました。母礼様は、阿弖流為様の父親と同じ大陸出身の鉄利人の父と蝦夷の母を持っていらっしゃいます。似た様な境遇の両者は、密かにお互いを意識しておりました。
「どうしたが。これでもう終わりが? おいはまだまだ疲れぬは。伊佐西古様の兵の中にはおいを倒す者はおらんが。」
と母礼様が一喝なさると、それまで静観していた阿弖流為様がやおら立ち上がり、
「人無きとは聞き捨てならねぁ。今度は大墓の阿弖流為が相手っし。」
と声を上げられました。目が細く、いかつい母礼様は、自分よりやや背の低い阿弖流為を上から見下ろし、こう言ったのです。
「ほう、先程から待っていたに、ようやく重い腰を上げだが。よし、来んべ(来い)。大墓の者より盤具の者が方こそ強力(ごうりき)であることを思い知らせてくれるは。」
そう言って母礼様は、猪の様に突っ込んで行かれたのでした。阿弖流為様は眉が太く、大きな丸い目をした顎の四角い方でしたが、長い髪を振り乱してそれをがっちりと受け止めたかと思うと、母礼様の突っ込んでくる力をそのまま利用して投げ飛ばしたのでした。母礼様は、
「今のは何が(だ)、一体何が起こったが(のだ)。」
と茫然として喚き散らししたのです。阿弖流為様は、
「おめ(お前)の負けっす。」
と言い放ちました。それに怒った母礼様は、
「今のは卑怯し、弓や馬ならどうが、おめ(お前)には負けねっし。」
と言い返したのです。再び阿弖流為様は、
「良かんべ(良かろう)、おめ(お前)の気が済むまでつきあうっす。」
と笑いながら自分の馬や弓矢を取りに行ったのでした。それをつぶさに見ていた伊佐西古様は心密かに、『この勝負、勝った方さ首領の座どご(を)明け渡すべ』と思っておったのです。もともと、急病で亡くなられた前首領の代わりに年上だった自分が軍を率いたのでした。でから自分より優れた者がいたら、首領の座を明け渡そうと常々思っていたからなのです。
二人の勝負は白熱したものでした。まず弓矢は、母礼様の矢は的を貫く程強力でしたが、より正確に標的を射とめたのは阿弖流為様の方だったのです。
「ええい、納得がいかねっす。次は馬っし。」
母礼様の連れて来た馬は巨馬で、それを乗りこなすかの人の腕は大したものでしたが、阿弖流為様の馬は同じ暴れ馬でも中位の大きさで、母礼様よりも速さやうまさが勝って見えました。母礼様の馬は大き過ぎて、折り返し等の細かい所で苦労してしまったからです。今回も敗れた母礼様は、潔く負けを認められました。
「完敗っす。今日から盤具の者ぁ残らず阿弖流為様の手の者し。よろしく頼むっす。」
と仰ったのです。
「何、そう堅く考えるねぁ(な)。どうせなら義兄弟の杯どご(を)交わすべ。」
と阿弖流為様が仰ったので、母礼様は半泣きになり、
「何と嬉しいことさ。兄さ。兄さと今日から呼ばせてけれ。」
と母礼様が仰っている所へ、伊佐西古様がいつの間にやら近づいてきて、こう仰ったのでした。
「まあ待つべ、阿弖流為さ、母礼さ。今の勝負見事し。そこで相談すんども、今日より阿弖流為おめ(お前)、胆沢の兵どご(を)おいの代わりに率いてはくれんが。母礼は副将にしたいのだに、いかがだんべ。」
「兄さ。おいに異存はないに(が)、兄さもそうだんべ?」
と阿弖流為様が答える前に、母礼様がそう答えられてしまったのです。
「まあ待つべ母礼、おいの様な若輩者さ、首領の座など荷が重いっす。今まで通り伊佐西
古様がやってけれ。」
と阿弖流為様が遠慮なさると、伊佐西古様がさらに続けて言うことには、
「阿弖流為さ。ご覧の通りおいはもう年齢(とし)っす。それに首領なんぞと云う役ぁ、おいこそ荷が重いっす。これまでぁ官軍の方が勝手に負けてくれたから良かったんども、これからはそうぁ行かねっす。おめ(お前)ぁ引き受けてくれねば、おいぁここで自害するしかないし。おいの所為で愛する陸奥の地ぁ、官軍どもに蹂躙されるのかと思っただけがら。頼むっす。」
とそこまで言われては、さすがの阿弖流為様も折れて引き受けざるを得ませんでした。
「分るっす。そこまで仰るがら引き受けるは。」
「そうっすか、引き受けるか。さっそくお披露目すべ。」
とその言葉を聞くと、母礼様を始めとする仲間達が騒ぎ出し、
「いる奴ぁ全員集まろ。大事な話があるし。」
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊