一縷の望(秦氏遣唐使物語)
そうして長岡遷都から日も浅い延暦四(西暦七八五)年九月二三日、陛下は例によって大和の方へ行幸しておりました。その理由は、幼い娘の朝原内親王様(井上内親王の孫)が伊勢へ斎王となる為に出発すると云うので、わざわざその見送りに行ったのです。種継様は、遷都したとは云えまだまだ完成途中の都の工事の様子を監督する為に陛下の留守の間も、自らの役職(陰陽頭)を無視した菅継様一人を供に現場を飛び回っておりました。かの人は、自分が人に恨まれている等と思ってもおりませんでしたので、碌な供も連れずに夜も松明を照らして現場を検分していたのです。その時どこからか数本の矢が種継様の胸を喉や額等の急所目掛けて飛んできたのでした。かの方は、咄嗟に身体を動かして急所に当たるのだけは防がれたのですが、矢には附子(ぶし)(トリカブト)の毒が塗ってあり、菅継様が助け起こした時には既に手遅れな程それが身体中に回っていたのです。よって、矢を抜いたものの極めて深刻な容体となり、現場の秦足長様に助けを求めて近くの舘まですぐに運び、秦一族の見守る中、必死の看病や祈祷が行われたのですが、意識はずっと戻らぬままでありました。半狂乱になった喜娘(きじょう)様が、動かぬ主人の身体に取りすがり、
「旦那前様、旦那さまあ。」
と泣き叫ぶ様(さま)は、見ていられぬ程痛ましいものでした。祖父(小黒麻呂)もその横で、
「種継、どうした。お主(ぬし)は我ら秦氏の一縷の望では無かったのか。こんな所で朽ち果てるわけにはいくまい。長岡京の造営はこれからぞ。」
と種継様に言うのですが、種継様は眼を閉じたまま祖父の手を握り締めたかと思うと、そのままぐったりなさったのでした。
「種継!」
「種継様。」
集まった人々が口々に叫ぶ中、秦氏の一縷の希望を掛けられ、転輪聖王と云う車の片輪を担う者と見做されながら、秦氏と名門藤原の子種を継ぐ種継様はこうしてあっけなく亡くなられてしまったのです。梨花様がかつて仰っていた様に、全ての力を兼ね備えていながら誠に天運に見放された方でありました。その梨花様は新婚の太秦浜刀自女(うずまさのはまとじめ)様に付き添われ、真成様に背負われて種継様の亡き骸の横たわる舘まで来ると、白髪を振り乱して遺体に取りすがり、
「朝元様と私の一縷の望が途絶えた。」
と言ったきり倒れ、浜刀自女様が太い腕で助け起こすと、弱弱しい声で彼女にだけ聞こえる声でこう告げたのでした。
「こうなったらもはや秦氏も何も無い。この日の本の為の転輪聖王を補佐する者に、浜や、お主が成るのだ。わしが占った所、種継と云う片輪を失った陛下(桓武天皇)も、大事を成し遂げることは適わぬ。だが、仏陀は既に降臨しておる。主は聞いておらぬかもしれぬが、前の集いで実忠法師様の仰っていた讃岐の佐伯真魚と云う者に他ならぬ。何としても、お主の見込んだ転輪聖王とこの者を会わせるのじゃ。これは、主こそ種継様の後を継げる者と見込んで言うのだ、分かったな。薬子辺りも、賢しげに父の無念を晴らしたがっているが、あの娘には邪念が多過ぎる。主で無くてはならん。一縷の望の襷、確かに渡しましたぞ。」
と言って梨花様は正気を失い、その後二度と目を覚まさなかったのです。その時見上げた浜刀自女様の眼に、死んだ父親の側に行儀良く座った薬子様と目が合ってしまったのでした。その目は氷の様に冷たくも感じられ、また炎の様に燃えている様にも見えたのです。すぐに浜刀自女様は首を振り、自分の今為すべきことを思い起こし、倒れた梨花様を揺らして、こう叫んだのでした。
「梨花さん、大おばさん、しっかりしなはれ。」
するとすぐに祖父の宅守様、父の広忠様、真成様も駆け寄ってくれ、四人で戸板を持っ
て梨花様を運んだのでした。そして梨花様は、後日そのまま帰らぬ人となってしまわれたのです。また、その一部始終をご覧になっていた薬子様は再び父親の遺体の方に目を向け、身動(みじろ)きもせずに父の死に様を見つめておりました。睨みつける様なその両目から、気付くと大粒の涙が幾つも毀れております。父(葛野麻呂)はそれに気付き、薬子様を抱きしめて髪を撫でてさしあげました。すると薬子様は大人しくされるがままになっておりましたが、やがて父葛野麻呂の耳元にそっと囁いたのです。
「父様の仕事は、葛野麻呂様が引き継いで下され。」
意外な言葉に驚きを隠せずに、父は薬子様を見つめてしまいました。その美しい顔からは涙が相も変わらず流れ落ちるままでしたので、もう一度父は薬子様を強く抱きしめ、
「分った。私が必ず成し遂げる、任せておけ。」
と仰ったのでありました。
種継暗殺の報は直ちに陛下に伝えられ、犯人を突き止めることが厳命されました。もしも陛下が聖徳太子に準(なぞら)えられるなら、種継様の殺害は秦河勝様を殺されたも同然になるのです。秦氏にとっては転輪聖王の片輪が失われたこととなるのでした。捜査の結果、まず弓の名手の近衛兵伯耆(ほうきの)筏(いかだ)麿(まろ)と中衛兵で蝦夷の牡鹿(おしかの)木積(こさか)麿(まろ)と大伴氏従者の大伴竹良(たけら)が、実行犯として逮捕されたのです。ついでかの者の取り調べの結果、主税頭大伴真麿、大和大據(だいよ)大伴夫子、左少弁大伴継人(つぐひと)、春宮少進佐伯高成ら十数名の名が挙がり、継人、高成の言うことには、
「亡き大伴家持様が、『大伴・佐伯の両氏を引きこみ、種継を討つべし。』と仰られたので、早良親王様に申し上げた所、親王様も同意されたので実行に移しました。」
と言うことなのでした。聞くことは聞けて後は用は無いということで、主犯の大伴継人、高成、真麿、竹良、春宮主書首(とうぐうのふみのつかさ)多冶比浜人らは皆、首を斬られたのでありました。特に実行犯の伯耆筏麿と牡鹿木積麿は、河原で斬首されたのです。連座した右兵衛五百枝王は本来死罪となる所、罪を減じて伊予に流されました。大伴家持様から預かった、万葉集編纂する為の大切な資料は、家族に大切に保管するよう託されてから配流の地へと向かわれたのです。同じく連座した北家藤原雄依(永手の子)・春宮亮(すけ)紀白麿・右京亮大伴永主(大伴家持の子)らは隠岐に流罪、東宮学士林稲麿は伊豆に流罪、その他の者も皆罰せられたのでした。事件直前に任地への旅の途中で亡くなった大伴家持様は、首謀者として死後官籍からの除名処分となったのです。これらの顔ぶれを見てみると、またしても藤原以外の貴族達が徒党を組んで藤原氏の種継様に刃を剥いたとも言え、ここにもまた、藤原と反藤原の争いが陰を落しているのでした。
極めつけは陛下の実弟である早良親王様にまで捜査の手は伸び、廃嫡、配流の処分が決定したのです。親王様は、
「兄上、早良は何も知りませぬ。信じて下され。」
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊