一縷の望(秦氏遣唐使物語)
「太秦と云うと、あの紫香楽宮の造営資金を請け負った太秦嶋麻呂の縁者か?」
と仰られましたので、
「へえ、嶋麻呂は父でおます。」
と宅守様がお答えになり、陛下はさらに続けてこう仰いました。
「そうか、あの嶋麻呂の子か。父のこと(自殺)は存じておる。誠に残念であった。朕はあの様な真似(遷都中断のこと)は決してせぬと約束するぞ。」
「へえ、分っておま。」
と宅守様が答えると、遷都のことは決まったも同然で、早良親王様を始めとして中納言大伴家持様や左大弁佐伯今毛人様等居並ぶ家臣は皆、何やら不服そうな顔をしておられました。それでも陛下はその決定に当たり、自ら祖父小黒麻呂を供に山城の遷都候補地を、鷹狩を兼ねて下見なさった上で事を決したのです。さらに一応形式的には、延暦三(七八四)年五月十六日、中納言種継様とその他の重臣(中納言藤原小黒麻呂・左大弁佐伯今毛人(いまえみし)・参議近衛中将紀船(ふな)守(もり)・参議神祇伯(じんぎのかみ)大中臣子(こ)老(おゆ)・右衛士督(すけ)坂上苅田麻呂等)で長岡の下見を行ったのでありました。この時の祖父(小黒麻呂)の下見の報告は聞くまでも無く、
「帝都を営むに実にふさわしい土地です。」
と言うものでしたが、実はこの時祖父と最澄様は既に顔見知りであり、その関係で先の陛下の下見の折にも、足を日枝山(比叡山)まで延ばしているのです。これは、この頃から陛下が最澄様を意識していたことを示すと共に、祖父が最澄様と親しいことも示していたのでした。祖父が親しいのは、先に述べた様な秦氏の方針も勿論、前にも申しました様に実は個人的にも最澄様と縁続きだからなのです。祖父は、以前に最澄様がご自分と縁があると知ってから、かの僧を個人的にも気に掛けていたのでした。そして自分の娘を妻に差し上げる程陛下と親しい祖父は、最澄様のことを折に付け陛下に売り込んでいたのです。
ともかく新都造営は開始され、延暦三(七八四)年正月には新宮殿での新年の儀式が執り行われ、これは、秦足長様が新都造営開始からわずか半年で宮殿を完成させたことになるのでした。そんな離れ業を成し遂げられたのは、長岡京と淀川でつながっている難波宮の建物の建材を運ばせたから出来たものなのです。陛下はこれを殊の外お喜びになり、この年の十二月、外正八位下秦足長様を従五位上とし、翌年十月には「主計頭」に任じられ、さらに延暦四年八月、従七位上の太秦宅守様を従五位下にし、延暦七年七月に「主計助」、延暦八年三月には「左兵庫助」にしているのでした。尚秦足長様の出世の度合いは、律令制度の位階制における新記録であり、この記録を破る者はとうとう現れ無かったのです。
種継様が出世し出した切っ掛けは、もちろん本人の能力の高さや能力の高い者を好んだ陛下(桓武天皇)の性格、そして幼い頃から鳥(と)狩(がり)を楽しんだことによる信頼もあります。しかし一つには、陛下の数多い妻の中から式家宇合(うまかい)様の次男の亡き藤原良継様の御息女、乙牟漏(おとむろ)様を立后させたことが挙げられましょう。その為、陛下の皇太子はその時点で弟の早良(さわら)親王様でありましたが、皇后陛下の子、安(あ)殿(て)親王様(後の平城(へいぜい)天皇)や神野(かみの)親王様(後の嵯峨天皇)の方に陛下の心が傾き始めてしまったのです。早良親王様としても心穏やかではなく、その後見人とも言える春宮大夫であった大伴家持様とその一族及び春宮坊官人一派は、種継様の敵に回ったのでありました。また、大伴氏と家来筋で同じく武門の氏族である佐伯氏の統領である佐伯今毛人様も、その一族と共に敵に回ったのです。あの空海様が奈良に来た時、御世話したこともあるあの今毛人様でした。そんな折、留守がちな陛下がその留守役を実弟の早良親王様にお任せになって、早良親王様は経験豊富で老齢な参議佐伯今毛人様を宰相並に使っていたのですが、この人事について寵臣である種継様が陛下にこう言ったことがあるのです。
「今、佐伯今毛人様は弟君の早良親王様に気に入られ、『参議の長』気取りでおりますが、佐伯の一族は元々蝦夷で、武門の地位はともかく、参議の長的な立場を務めた者等おりませんでした。第一、蝦夷と言えば只今陛下が成敗している最中でもあり、これでは回りの者に示しが付き兼ねます。どうか、親王様に注意を促して下さいますよう。」
陛下はこれをもっともだ、とお思いになり、まだ青年の早良親王様に注意したのですが、親王様は激怒され、
「その様な不敬なことを言った種継を、今すぐ処刑して下さい。だいたいあの者は、秦氏の娘の子ではありませぬか。その者が、佐伯の生まれをどうこう言う権利などありませぬ。」
と恐れ多くも言い返されたのでありました。これを聞いた陛下は逆に激怒され、
「種継は朕の大切な友じゃ。今の物言い、たとえ実の弟と言えども許せぬ。今後朕の不在
の時に政(まつりごと)を代行する必要は無い。」
と仰せられ、親王様もまたこれを聞いた今毛人様も、深く種継様を恨まれたのでした。
そもそも早良親王様は父の亡き光仁天皇の不遇時代(西暦七六一年)、兄の山部王(現桓武天皇)同様皇族として世に出る機会を諦め、出家して東大寺や大安寺に住み、親王禅師と呼ばれる程でしたので、南都六宗と呼ばれる奈良仏教から距離を置く為のこの度の遷都には始めから反対だったのです。それに大伴にしろ佐伯にしろ、元はと言えば秦氏に好意的な氏族なのでしたが、種継様個人の言動に対し敵意をお持ちになられてしまったのでした。元々、種継様にしろ祖父小黒麻呂にしろ、藤原氏と云うよりは秦氏の者です。大伴も佐伯も、自分達の部下であった秦氏が、自らの上に君臨する様な状況には、面白くないものを感じていたのでありました。
事件の切っ掛けは、先にも述べた様に大伴家持様が、老齢にも関わらず蝦夷征伐の為に赴任されたことに憤ってのことでありました。家持様は都を出立する直前に、和歌仲間であった右兵衛五百枝王(いおえのおおきみ)の舘に大きな荷物を持って現れ、驚く友に向かってこう述べたのです。
「右兵衛様、これはあなた様にも日頃から手伝って頂いていた万(よろず)の言(こと)の葉(は)を集める仕事(万葉集編纂)のこれまでの全資料です。貴方様も知っての通り、これは亡き太安万侶様、橘諸兄様より受け継いだ大切な、大切な物に御座います。私は明日、愛する老鷹桜井を持って都を離れねばなりませんが、この年齢で、しかも病気がちです。生きて都に戻れないでしょう。資料はもう全て集まっています。後は名を付けて、世に出すだけなのですが、鄙(ひな)なる所(田舎)に赴任致しますので、それも適いません。ですから私がこのままが持っていても仕方のないものですので、どうか右兵衛様、いつか必ずこれが陽の目を見ることもありましょうから、どうか貴方が大切に保管しておいて下さい。そして機を見て、必ず世に示して下され。」
「私の命に変えて、お預かり致す。そしていつか必ず、これを世に出しましょう。」
五百枝王の力強い承諾の言葉を聞き、大伴家持様は心残り無く北へ旅立って行かれたのでした。こうして全ての歌詠みの指標とも云うべき「万葉集」が、五百枝王の元で大切に保管されたのです。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊