一縷の望(秦氏遣唐使物語)
こうして皇室の遊猟地である広い交野(かたの)ヶ原にその頃雄田麻呂様と名乗っていた百川様も含めて遊び、若い山部王様と種継様は兄弟鷹の伯(はく)夷(い)と叔(しゅく)斉(せい)を使って何度も鳥狩で共に汗をかく内に、幼馴染を卒業して主君と家臣の垣根を越えた親友同士となられたのでありました。種継様の様に才気活発で正直な物言いをする方は敵も多かったのですが、山部王様は有能で物怖じしない種継様の性格に、すっかり惚れ込んでしまわれたのです。母である高野新笠様との仲も、自然と近付いていきました。それと云うのも種継様は百済の言葉を器用に操り、高野新笠様の御機嫌を取ることに余念が無かったからなのです。
そんな時、山部王様は式家(北家は他戸親王様の擁立に回った)の尽力もあって即位し、例の井上内親王と他戸親王の祟りで良継様、百川様が次々に亡くなられると、種継様は棚ぼた式に式家の総領となってしまわれたのでした。さらに山部王様の即位後は参議兼式部卿となって中納言まで登りつめる一方、藤原家の最高実力者だった北家左大臣魚名様が、先頃の氷上川継の乱に連座して罷免され、実質上の最高実力者となられてしまったのです。時も時陛下(桓武天皇)は、朝議の席で遷都の地を模索したい、と仰せになられたのでした。その条件として、「物資の運搬に便利な大河があること」と云うものが挙げられたのです。それに対し種継様は即座に、
「それは長岡が良う御座います。」
と答えられたのでした。実は、陛下の希望と条件はあらかじめ種継様に伝えられてあって、このお答は、種継様が一族の秦氏の者を葛野の故朝元様の舘に急遽集め、会合を開いて検討した結果なのでありました。
その会合に集まった面々は、まず呼び掛けた種継様、その従弟の菅継様は例によって種継様の後ろに直立しております。それから中心には何故かこういう会合には出たがる亡き朝元様の妻梨花様、その息子の真成様、客人として当時民部卿であった和気(かつての輔治能(ふじの)真人(まひと))清麻呂様、太秦宅守様、宅守様といつも一緒にいる孫娘の浜刀自女(はまとじめ)様は、何故か梨花様を大叔母様と呼んで親しいので残念がっておりましたが、夫を迎えるとかで今日は欠席でした。さらに遠縁で土木担当の若き責任者秦足長(たりなが)様、種継様の長子仲成様、同じく娘の幼い薬子(くすこ)様、北家より我が祖父の藤原小黒麻呂、その息子の我が父葛野麻呂、仲成様や父の親友藤原宗成様、宅守様が預かり今は種継様の三番目の妻でもある、薬子様の母でもいらっしゃる喜娘(きじょう)様、不破内親王様の粛清に協力した南家藤原刷雄(よしお)(この時点で上総守(かずさのかみ))様、その粛清に協力した阿倍仲麻呂様の技を受け継ぐ阿倍満月麻呂様、そして東大寺から実忠和尚様と秦氏の勤操法師様でありました。
勤操法師様は三十路を迎えたばかりでいらっしゃり男盛りで、太く黒い眉のいかにも精悍な顔付きです。当時大安寺の官僧で、秦氏である所為か行基大僧正の貧民救済の菩薩行に深く感銘し、大僧正亡き後その行を受け継ぐ者も無いまま弟子達が残されてしまった事を密かに嘆いておりました。そして官僧のままその後を継ぐ為、大安寺の弟弟子達と共に、『文殊会(もんじゅえ)』を開く事を考えていたのです。これは大僧正が生前、貧者の守護菩薩文殊である、と言われていた事に因み、その弟子達も総動員出来る法会(ほうえ)を公式に催し、貧者救済の志を寺で大々的に受け継ごう、と云う画期的なものだったのです。
一方、薬子様は何故か私の父(葛野麻呂)がお気に入りで、父の横の母喜娘様の膝に
乗って大人しく座り、会議の間中、父葛野麻呂の方を見つめておりました。父葛野麻呂も、二十歳以上年齢の違うこの幼女の視線に何故か心騒ぐ想いがして、会議に集中出来なくて困ってしまった様です。子の私から申し上げるのも何なのですが、父はすこぶる見目麗しく、真面目な性格とは言え、昔から女子(おなご)の方で放っておけない様なのでした。
ところで、阿倍満月麻呂様が皆に紹介された時、満月麻呂様ご自身が仰ることには、
「ただ今ご紹介に預かりました阿倍満月麻呂で御座います。ところで皆様、皆様は唐に行ったきりの父仲麻呂の消息が気掛かりかと存じます。ここにもいる喜娘様から聞いた話なのですが、父は宝亀元(七七〇)年一月、唐で亡くなったそうに御座います。また養父である藤原清河様も亡くなっていたので、そのご遺言で喜娘様は来日なさったそうに御座います。」
「ほう、そうであったか。お気の毒に。」
と一同は、二人に弔辞の意を示したのでした。
また本日は急な集いでしたので料理等の準備も無く、唐渡りの高価な茶が置かれ、同時に唐菓子の索餅(さくべい)(揚げた素麺の様な菓子)がつまめるようになっておりました。また、一番端の真ん中の席に陣取った白髪の梨花様でしたが、一同の挨拶を聞いている内に座ったまま寝てしまわれました。真成様はそれにいち早く気づき、
「母はどうやら寝てしまわれた様です。あちらの間(ま)にお連れしましょうか?」
と種継様にお聞きになりました。種継様は、
「良い、良い。会議が始まれば起きることもあろう。」
と笑いながら答えられますと、祖父(小黒麻呂)が、
「ところで、我らはどうして呼ばれたので御座いましょう?」
と会議の口火を切られたのでした。それに対し種継様は、こう答えられたのです。
「それで御座います。この度陛下に置かれましては遷都のご希望があることを私にお洩らしになり、どうやら次の朝議で正式に提案なさるご様子なので、その時までに候補地を考えておく様にとの御内意なのでしょう。そこで皆に急遽集まって貰ったのは、恭仁(くに)京でのしくじりを繰り返さぬ為に、我ら一族がどの様に動くべきか諮りたいので御座います。」
種継様の言葉をうんうんと頷いて聞きながら、種継様の後ろで菅継様はかの方を心酔しきった様な眼で見つめておりました。
「うーん、その様な大事、突然答えろと言われても。」
と秦足長様が索餅を摘みながら思わず自らの気持ちを洩らしてしまうと、和気清麻呂様が、
「それなら種継様、この葛野(かどの)にしてはどうかの?」
と、早くも案をお出しになったのでした。前述しましたが、清麻呂様は先日祖父(小黒麻呂)の娘を娶り、我らとは姻戚関係となっていたのです。
「あかん、葛野のえぇ場所は殆どわてらが取っておます。わざわざ自らの領地を献上するもんもおらんやろ。わては、わてらが途中まで造った紫香楽宮なら、亡きお父さん(嶋麻呂)の無念も張らせるんかと思うんやけど。」
と太秦宅守様が仰ると、
「紫香楽宮にしたい主(ぬし)の気持ちも分らぬではないが、大河があること、と云う陛下の条件に当てはまらぬ。ここは、我らのもう一つの本拠、難波宮などいかが。」
と種継様が持論を展開され、
「難波は、今ある奈良より余りにも遠過ぎる。」
と秦真成様が異論を出され、意見はまとまらぬかに思われました。その時、いつのまにか目をお覚ましになられたのか、梨花様がむくりと白髪頭をお上げになり、
「都なら長岡が良い。」
と大声で言い、また眠ってしまわれました。
「母上、起きてらっしゃったのですか?」
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊