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一縷の望(秦氏遣唐使物語)

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と不破内親王が言った途端、中衛府の兵達の後方の暗闇の中から声が聞こえたのでした。
「待て、お主(ぬし)らの相手は我らが致す。」
「何奴。」
と親王が言い返すと、兵達の掲げていた松明の光が集まり、その場所を照らすと、貴族の朝服の男と年取った道服の者、それに若い女儒三人の姿が浮かび上がりました。
「刑部大判事の藤原刷雄(よしお)だ。吉備真備様の弟子として秦一族の恥、不破内親王成敗致す。覚悟せい。」
「黙れ、謀反人恵美押勝の小童か。そちの父親は、我の夫を担ぎあげた張本人ではないか。横にいる爺(じじい)と女はなんじゃ。」
 すると左横に居た老人が言ったのでした。
「婆(ばばあ)に爺(じじい)呼ばわりは心外じゃな。わしは阿倍満月麻呂と云う者、唐へ渡った阿倍仲麻呂様を継ぐ者じゃ。」
 阿倍稀名様は、かって故吉備真備様が尋ねられた時とは打って変わって、生活が改善されたせいか小太りになっていらっしゃいます。そしてさらに右横いた女儒が、
「私はやはり唐に行った藤原清河の娘、喜娘(きじょう)。容赦しませんぞ。」
と叫ぶと、
「黙れ、我ら六人に勝てると思うてか。」
「それはどうかな。」
と言いながら刷雄様が前に突き出したのは、伊勢神社に伝わる宝刀布流剣(ふるのつるぎ)でした。
「そ、その剣をどうして。」
「問答無用、参るぞ。」
と言うが早いか、阿倍稀名様が呪文を唱え、喜娘様から放たれた靄(もや)の様なものが布流剣とそれを持つ刷雄様を包み込むと、かの方は剣を構えたまま六人の老婆のいる藁葺き屋根まで飛び移り、まずは目に見えぬ結界をばっさり切り捨てたのでした。そして不安定な藁葺きの上で大騒ぎする老婆達の中に斬り込むと、あっと言う間に不破内親王以外を全て倒し、親王の頸動脈にその剣を突き立て、
「神妙にせい。」
と言ったのです。すると、
「畜生。坂上苅田麻呂親子(子の名は田村麻呂)が味方さえしてくれれば、むざむざ捕まる様なことは無かったのに。」
と言って、不破内親王はその場に座り込んだのでした。それで建物の戸も開いたので、兵達も中へ突入して氷上川継とその一家及び一味を全て捕えたのです。
 全てを見届けた喜娘様は、
「もう宜しいかと思われます。事前に布流剣を借りておいた甲斐がありましたね。」
と稀名様に声を掛けられると、
「まったく。我らは亡き秦澄大和尚様達の様な達人では御座いませんからな。それにしても亡き楊貴妃様の娘御と、こうして日本国で共に戦っているとは因縁で御座りますな。」
と答えられました。
「はい、ほんに。日本語もだいぶしゃべれる様になりましたから、今夜は太秦の舘に立ち寄って、昔語りなどしましょうぞ。」
「それは良いが、種継様に怒られはしまいかな。」
「もう、おからかいを。」
と言って、二人は笑ったのでした。それにしても、亡き吉備真備様はあれほど一族同士の和を願ってやまなかったのです。にもかかわらずここに来てまた、それはあっさりと破られることを繰り返し始めたのでした。
 この謀反の件で川継の罪は当然極刑に値する所、天武天皇系の最期の流れであることを鑑み、死一等を減じられて伊豆国に流罪となったのでした。母親の不破内親王は、川継の姉妹と共に淡路島へと流されたのです。またこの事件に連座して、舅の京家参議藤原浜成様が左遷され、黒幕だった北家左大臣魚名様が罷免されて大宰府へ左遷され、山上船主様(山上億良(やまのうえおくら)の子、陰陽頭(かみ))、参議大伴家持(おおとものやかもち)様、坂上苅田麻呂(右衛士督(かみ))がそれぞれ処罰を受けたのでしたが、後に家持様と苅田麻呂様は嫌疑が晴れて元の地位に伏したのでした。藤原四家の内劣勢だった京家(四男麻呂の系統)はこれで没落が決定的なものとなり、その地位に長く甘んじることとなるのです。因みにこの時新しく陰陽頭となったのが、藤原種継様の従弟である菅継(すがつぐ)様なのでした。韓国広足が滅ぼされて担当者もいなかった呪禁寮は、これまで有耶無耶のまま名だけが残っていたものの正式な廃止もこの時行われ、念願であった、陰陽寮の秦氏による独占がこの時より成されたのです。
 
第四章 藤原種継暗殺
杜若(かきつばた)衣に擦りつけ丈夫(ますらを)の着襲ひ(きそい)狩(かり)する月は来にけり(大伴家持(おおとものやかもち)作、万葉集所収)
 この歌は、「かきつばたを着物になすりつけ、勇士が用意万端で狩をする月が、ついに来たのだ。」の意です。大伴家持様は、橘奈良麻呂の乱を皮切りに様々な乱に関わってこられましたが、ご自分が罰せられることはついにこの時までありませんでした。それは、隙を作らぬ老獪なお方だったからであります。この藤原種継暗殺事件に関しても、首謀者は誰がどう見ても家持様なのですが、当時の個人的な記録は全て処分してしまったのか、ついに確証が得られぬまま時代が変わり、死後ではありますが、無罪となって名誉回復されたのでした。その徹底振りは、あれほど和歌を書いた方であるにも関わらず、この頃の和歌は一切発見されぬことからも伺えようかと思われます。家持様が何故藤原種継様暗殺の先導をするに至ったかは、本編でじっくり語りたく存じます。
 さて秦氏の子種を継ぐと云う意味の名の種継様ですが、そもそもどの様に陛下の寵臣となるに至ったのでありましょうか。それは第一部でも朝元様が書かれましたが、まだ陛下が山部王様と申し上げた頃に遡るのです。二人はちょうど同じ年齢(とし)で住んでいた所も近く幼馴染であったのですが、成人するに当たり、共に朝元様の元で学問を学ぶ学友でもあったのでした。さらに成人してからは、種継様は頭も切れ、身体も壮健で果断に富んでおり、野望を実現する為に如何なる手段をも辞さぬお方でしたから、まずは山部王様の御母堂様は、百済系帰化人の高野新笠様であられることに目をお付けになり、鳥(と)狩(がり)(鷹狩)鷹狩を百済系なら自然とお好みになるだろうと考え、自らも鳥狩を習ってから、山部王様の鷹狩に加わらせて頂いたのです。また高野新笠様は母親が土師氏で、先にも申し上げました通り、土師氏は秦氏とごく親しい間柄ですから、種継様が鳥狩の一行に加わるのも容易(たやす)かったのでした。またこの時は、同じ式家の藤原良継様、百川(ももかわ)様兄弟、北家の永手、魚名様兄弟に近付き、特に山部王様と母の実家が同じ渡来系である百川様に頼んで、山部王様と近付きたい種継様を鳥狩に参加させてもらったのです。また百川様がかつて雄田麻呂様と名乗られていた若い頃、山部王様のお供をして朝元様の元に足繁く通ったものなのでした。その結果、藤原式家北家を挙げて山部王様を担ぎあげることとなったのです。このお蔭で、一味の長であるはずの吉備真備様が父親である光仁天皇様の擁立にかつて反対なさった時も、藤原家の力を借りてそれを跳ね返すことが出来たのでした。真備様は協力関係にあったとは言え、やはり秦氏との利害は完全に一致していた訳では無かったです。真備様が拘った、光仁天皇様が天武系ではなく半分天智系であったことも、秦氏にとっては預かり知らぬこととだったのでした。