一縷の望(秦氏遣唐使物語)
「おじ貴、あの様な美しい娘をどこで手に入れた? あぁ、それから菅継お前は一足先に帰って梨花様と母に、今日はこちらに泊ってくる、と伝えるのだ。お前はそのままこちらに戻る必要は無いぞ。」
そう種継様に命じられると、菅継様は目礼してその場を下がり、それを確認してから宅守様は、種継様の質問に答えられました。
「まあまあ、そう慌てないな。だいぶ喜娘さんに御執心の様でおますな。」
「うん、わしもそろそろ乾いてしまったかと思っておったが、あの様な娘なら一晩褥(しとね)を共にしても良いと思うておる。」
「これはまた性急なことでんな。あの娘はあの藤原清河様の義理のお子でおます。先日父の供養をした後に、偶然油谷の港に漂着した所に出くわし、介抱して素性が分ったさかい、この屋敷まで連れて来てお引き合わせ致しました次第でおま。」
「何と清河伯父の娘御か。義理と云うと本当の親はどこの誰じゃ。やはり唐人か。」
「へぇ、それで驚いたらあかん。。喜娘さんの本当の名は、かの玄宗皇帝と楊貴妃さんのお子で、小真さんにおます。」
「げえー。それをこんな所に連れて来て良いのか。」
「へぇ。本人の言うことには、母親の楊貴妃さんが殺されかけた所を、阿倍仲麻呂さんの機転で何とか一命を取り留め、この喜娘さんを産みはったもんの、産後の肥立ちが悪うて儚く(亡く)なったそうなんどす。仲麻呂さんの死後は勿論、生前からずっと清河さんの嬢ちゃんとして匿われていたそうなんやが、この度久方振りに遣唐使船が来ると聞き、その時は既に亡き者となりはっていた仲麻呂さんとお義父(清河)さんの帰りたかった日本に、せめて自分が行ってみたいと思いはって、矢も楯も堪らず日本へ渡って来たんやそうどす。しかし船が難破して自分だけが日本に漂着して助けられたはったんやが、役人のいる所まで船で行く途中またも難破しはって、油谷の港まで流されてしもうたそうでおま。」
「ううむ。二度の漂着とは数奇な運命じゃの。それでこの娘をどうする積りじゃ。」
「へぇ、そのことなんでおますけど、思うに喜娘さんは、人の形をした宝石どす。宝石は、それを持つべき者が持つべきでおます。それで私の知り合いの中でこの宝石を持つのに最もふさわしい方は、種継さん、貴方さんしかいないと思うのどす。種継さん、もしも喜娘さんのことがお気に召したのなら、あの嬢ちゃんも何もかも承知でおますから、どうぞ今夜こちらにお泊りになって下さりませんやろか。」
こうして喜娘様は種継様の三番目の妻となられ、すぐに運命の子、薬子様をお産みになるので御座いました。
さて伊勢に美しい雲が現れたことから、元旦に改元されて元号は天応(西暦七八一年)となったのでした。その前後の陛下(光仁天皇)の御政道は、仲天皇(なかちすめらみこと)(次の皇太子への中継ぎ)の役割しか期待されていなかった割には、冒頭の童謡にありました様に老齢にも関わらず実にご立派なものだったのです。北家藤原永手様・魚名様兄弟や式家良継様・百川様と云った補助役が充実していたとは言え、何と十二年の長きに渡って乱れに乱れた政治を立て直し続けたのでした。例えば罪有る者に報いを与える一方、橘奈良麻呂の乱や恵美押勝の乱で罰せられた者で今尚生きている者を許す(例えば西暦七七二年、藤原刷(さつ)雄(お)が許された)とか、我らにとっては輔治能(ふじの)真人清麻呂様の罪を無くし、さらにかの方に和気姓を賜る等、罪無くして罰せられた者の名誉回復に努めたのです。因みにこれが、和気清麻呂様の誕生の瞬間なのでした。清麻呂様はこの後、祖父小黒麻呂の娘、つまり私の叔母を娶り、真綱、仲世兄弟を産むこととなるのです。
また陛下は、逼迫した財政を立て直すよう務められます。さらに宗教政策においても、それまで禁じられていた山林修行が解禁となり、先に述べた最澄法師様の山林修行や我らの作り出した修験道も、この為妨げなく行うことが出来たと申せましょう。またその他様々な宗教改革を断行する一方、故行基大僧正様の業績を受け継ぐ社会事業をしたり、これも故鑑真和上様の唐律招提(後の私寺唐招提寺)を保護する等、官寺の勢力からの脱却を図り始めたのでした。そしてこのお話にとって重要な役割を果たす「十禅師」と云う役職も、この陛下によって新たに設けられたのです。十禅師とは、先に設けられた内道場で朝廷に仕える仏教僧達のことで、僧の頂点に当たる地位となるのでした。これらの仏教政策は、次代の桓武天皇の宗教政策へと受け継がれていったのです。まさに「好(よ)き璧(たま)」だったのではないかと思われるのでした。
しかし天応元年三月二五日、そんな陛下(光仁天皇)が急にお身体を壊してその状態が一カ月以上続き、弱気になって四月一日、皇太子の山部親王様(桓武天皇)に譲位されてしまったのでした。さらに十二月二十三日、健康が回復しないまま陛下は崩御されてしまったのです。それで翌年八月十九日、再び改元が行われ、延暦と年号が変わったのでした。新陛下である山部親王様はこの時四十路半ば、容貌は若い時のままでしたが、髭を蓄えられて貫禄が滲み出ております。壮年で健康な男(おのこ)の天皇(すめらみこと)は奈良の都に移ってから初めてのことで、嫌が応にも期待が高まっておりました。秦氏の期待する転輪聖王と云う車の両輪が、表舞台で走り出す時がようやくやってきたのです。それはまた、新羅系、百済系、高句麗系の渡来人が統一して待ち望んでいた君主の到来でもあったのでした。
その延暦元(天応二、西暦七八二)年正月十六日、塩焼王と不破内親王の次男氷上川継が因幡守に任じられ、同じ月の十日その川継の質人(家来)大和乙人(やまとのおとひと)が武器を帯びて宮中に入り込んで捕えられる、と云う事件が起こりました。その者を尋問してみると、こう応えたのです。
「恐れながら申し上げます。我が君(氷上川継)におかれましては、先日因幡守に任じられた恩も忘れ、天智系の陛下(桓武天皇)が即位されたのを良しとせず、自分こそ天武系の正当な後継者と仰り、陛下を害す為に本日夜半、我ら川継一味を集めて宮中に乱入しようと計画しているので御座います。私は大逆の罪を恐れ、かく申し上げる次第で御座います。」
朝廷はすぐさま関を固め、川継一味を捕える為勅使を遣わしますが、一味は大和乙人の裏切りを察し、いち早く逃げ出したのでした。しかし十四日、大和国葛上郡に潜伏している所を捕縛の命を受けた中衛府の兵に囲まれてしまったのです。いよいよ建物の中に踏み込もうとした途端、舘の藁葺(わらぶ)き屋根の上から老婆の声が聞こえたのでした。
「ふぁ、ふぁ、ふぁ。この建物には入れぬぞ。我らが結界を張った故な。」
上を見ると寒風吹きすさぶ中、老婆の不破内親王と五人の女儒(女の召使い)達が藁葺き屋根の上にまるで浮いている様に立っていて、こちらを見下ろしていたのです。その外見は、かつての美しかった姿が想像出来ない程凄まじいものだったのでした。
「不破内親王と女儒達だ。弓打てい。」
と号令がかかると、一斉に屋根目掛けて矢が放たれたのですが、空間が歪んでいて、矢は全て狙いを外れたのでした。
「ふぁ、ふぁ、ふぁ。無駄じゃ。無駄じゃ。それではこちらから参るぞ。」
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊