一縷の望(秦氏遣唐使物語)
それからと云うものです。宝亀七(西暦七七六)年以降天変地異がしきりに起こったかと思うと、まず裳咋足嶋が狂い死んだのを最初にして、次に式家の藤原良継様が宝亀八(西暦七七七)年急病でお亡くなりになりました。この良継様の生前、自らが見込んだ山部親王様を御自分の娘乙牟漏(おとむろ)様の元に通わせることに成功し、生まれた息子が安殿親王(あてのみこ)(後の平城天皇)と神野(かみの)親王(後の嵯峨天皇)兄弟なのです。また良継様の末の娘の諸姉(もろあね)様は、百川様の最初の妻になるのでした。最期に黒幕であった百川様も、宝亀十(西暦七七九)雷に当たって亡くなられたのです。百川様もまた、その娘の旅子様を良継様より後に山部親王様の妻とし、その方は大伴親王(後の淳和(じゅんな)天皇)様をお産みになるのでした。
実は妹の不破内親王が、井上内親王の亡くなる直前の宝亀三年十二月にすっかり老いてしまわれましたが都に戻り、腹心の五人の女儒(女の召使い)達と共に亡き行基大僧正様直伝の技を使い、夜な夜な仇である三名(裳咋足嶋・藤原良継・百川兄弟)への呪詛を、無念の内に死んだ姉と甥の恨みの力を借りて本当に行っていたのでした。誰もいない筈の例の宇智郡(大和の国)の空き舘の中で、六人の老婆が暗がりで祈る様は、ただそれだけで身の毛のよだつものだったことでしょう。具体的には以下の様なやり方でした。舘の中に三角の炉を作って屍を焼いた灰を入れ、壇の中央に不動明王像、東方に薬師如来像、北方に観音像、南方に金剛夜叉明王像を置き、日没から修法を始めるのです。まずそれぞれの仏の咒を唱え、東方に金剛杖を、南方に髑髏杖を、西方に縄を、北方に経文を置き、次に同じ方向にそれぞれ白、黒、紅、金の帛(はく)(絹布)を壇上に置いて印を結んで呪力を込めるのでした。さらに白芥子を撒き、壇の前で本尊の印契(両手で示す手振)を結びつつ、相手を呪殺しようと念じるのです。ある時、念じている最中に雷が鳴り雨が降り出しました。すると三人の内、その時念じていた者が死に、昼間それを確認してから次の者を念じ始めるのです。そして三人が死に絶えると、呪詛を甥と姉への鎮魂の祈りに変え、静かに空き舘を立ち去ったのでありました。
お断りしておきますが、我らの力は本来この様な邪な行いをする為に身に付けるものではありません。しかし残念ながら、塩焼王と云う伴侶を失った不破内親王の暴走を止める者も無く、まだまだ続くのでした。
さて話は変わりますが、宝亀八(西暦七七七) 年、小野石根様(副使だが、実質上の大使)と云う方を代表とする遣唐使が久しぶりに唐に向かったのです。玄宗太上皇陛下も既に亡く、藤原清河様を連れ戻すと云う目的(阿倍仲麻呂は七七〇年に既に死亡)は、既に清河様が亡くなられていたので適わなかったものの、清河様が唐の女性との間に儲けられた「喜娘(きじょう)」と云う娘を、父・清河様の遺言もあって日本に連れ帰ることだけは成功したのでした。しかし翌年帰国の途についたものの、またも暴風雨に遭って石根様と唐使は亡くなられたのですが、分断した船の残骸にへばり付いて天草郡西仲嶋に辿り着き、喜娘様だけは奇跡的に日本へ渡ってこれたのです。この方はあの楊貴妃様の忘れ形見で、朝衡様(阿倍仲麻呂)と育ての父親が死ぬまで恋しがった日本を一目見んとて、義母と別れて日本を訪れたのでした。島に漂着してから地元の漁師に救われ、彼らも一目で高貴な方だと分り、地元の実力者に相談した所、現地の秦氏の宗像(むなかた)一族の所に引き渡さんと船で宗像氏のいる所まで行こうとしたのです。ところがその船も遭難してしまい、長門国の油谷の港にまで流されて辿り着いたのでした。
ちょうどその時、亡き父の命日六月四日に合わせて、太秦(うずまさ)宅守(やかもり)様が子ども達を置いて、孫娘の少女浜刀自女(はまとじめ)様を一人連れて油谷の港へ出掛けたのでした。もう三十年以上も前のことですから、家族の者を連れてくる訳には行かず、妻の海刀自女様にも先立たれていることもあってお気に入りの孫娘一人を連れて来ていたのです。因みに宅守様には五人の息子がおり、長男を広忠様、次男を広貞様、三男を兼康様、四男を兼氏様、五男を昌俊様とおっしゃり、浜刀自女様は長男の広忠様の娘でしたが、実は息子達とはいずれも折り合いが悪く、今回も付いて来てくれなかったのですが、何故か初孫の浜刀自女様だけは祖父の宅守に懐いていて、父親が行かないのなら自分が行きたいと言い出し、こうして二人旅となったのでした。そもそも五人の息子に嫌われてしまったのは、秦氏の悲願についてくどくどと語る父に嫌気を差されたからなのですが、ただ孫娘の浜刀自女様だけは、祖父の話を何度語っても関心して頷きながら聞いてくれるのです。そんな孫を可愛くない筈がありません。ところでもうじき老年となる宅守様は、一族では珍しく背も低く、年齢を重ねて祖父牛麻呂様愛用の烏帽子や唐服を着ていると、ますます祖父と姿形が似て参りました。自分の先に立って先頃流行りの褻(け)の汗衫(かざみ)(その頃の女児の普段着)を着て歩く孫娘が、こちらを不安げに振り向く顔を見ると、浜刀自女様の容姿は女子(おなご)でありながら祖父そっくりな牛似であります。見場の良さを誇る秦氏の女達の中に有って、この様に自分に似ている為にその長所を受け継げなかった孫娘の将来のことを考えると、宅守様は時に夜も眠れぬことが有るのでした。そんな祖父の心配を知ってか知らずか、浜刀自女様は何事にも積極的で、明るい社交的な性格なのです。二人で辿り着いた岬に菊の花束を投げ入れてから冥福を祈って港の方へ降りていくと、何やら漁師達が騒がしいのでした。浜刀自女様がいち早くそれに気付き、祖父宅守様にこう告げたのでした。
「お爺さん、漁民達があないな所で何やら騒いではる。」
「はて、何やろか。行って事情を聞いてみまひょか。」
と言って、宅守様を漁師達に何を騒いでいるのか、聞いてみたのです。その話によると、港に高貴な女性が打ち揚げられて今介抱をしている最中と云うことでした。実際都暮らしが長いと、彼ら下々の者の言葉はまるで分らないのですが、身振り手振りで何とかその様な内容の話が伝わったのです。国府の出先の役人のくる間、慣れた手つきで介抱していたのですが、服を脱がされ筵にくるまって焚火の前で半死の状態で震えている色白な女が、筵から零れるばかりの胸を隠している姿を見ると、老齢の宅守様と云えど、青年時代の様な時めきを覚える程魅力的でした。その一方幼い浜刀自女様は、純粋にその美しさに感嘆の声を挙げたのです。
「お爺さん、このお姉さんとっても綺麗。あぁーあ、わてもあないに綺麗やったら宜しい
おますのになあ。」
幼い孫が、既に自分の容姿に引け目を感じていることを初めて知り、悲しくなりながら
もその時こう閃いたのでした。
「この女(あま)。何者やら知らへんが、使えま。」
と呟き、目を覚ました女にこう話し掛けたのです。
「おぉ、気が付いたんか、余程の強運の様や。名は言えまっか。」
女はまだ判然としていないのか、とろんとした眼で宅守様と浜刀自女様を交互に見つめ、たどたどしい日本語で返事を致しました。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊