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一縷の望(秦氏遣唐使物語)

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「申し訳ありません。私にも用が御座いまして、ちょっと目を離した隙に大極殿を抜け出されてしまったのです。」
 陛下は裳にすがりつく首皇子様の頭を撫でなさると、
「皇子様、朕は何処にも行きませぬ。あぁ、朝元、朕は取り込み中故、そちはもう下がっても良いぞ。」
と言って、その言葉に合わせて私に向かって顎で退出を促す宇合様やようやく追いついた安宿媛様を連れて、陛下は奥に下がったのでした。私はそれを見送ると、笑いが込み上げてくるのを堪えながら、その場を下がったので御座います。この安宿媛様はこの一年後、首皇子様との間に阿倍内親王(後の孝明天皇)様をお産みになり、光明夫人(ぶにん)と呼ばれるので御座います。
 全ての公用が終わり、大極殿を出て宮城の門をくぐると誰かが近づいてきて、傍らにいた従者の大麻呂がこう叫んだのでした。
「旦那様、随分お待ちだったでしょう。こちらが朝元(あさもと)様です。朝元様、秦下牛麻呂(はたしものうしまろ)様で御座います。」
 鳥打帽を被って唐風の服を着た壮年の男が私に近づいてきて、軽く会釈をしてこう仰いました。牛麻呂様は名は体を表すと申します通り、牛の如く温和でゆっくりとした身のこなしなのです。しかし愛想笑いしていても眼だけは笑っておらぬのを、私は見逃しはしませんでした。
「お初にお目に掛かりま。わてが太秦の秦下牛麻呂どす。秦朝元さんでいらっしゃいまっか。お父上の弁正さんに宛てた文(ふみ)のお返事は頂けたんやろか?」
 私も初対面の挨拶を返そうとした時、背後から聞きなれた声が掛けられたのです。
「朝元、出世する奴とは思っていたが、いきなり賜姓と従六位とは驚いた。さすがだな。」
 見ると、やはり宇合様がいつの間にか朝服に着替えて、にこにこしながらこちらに近寄ってきました。
「ほんまどすか? 朝元さん、お目出度さん。」
と牛麻呂様は私に仰いましたので、私は照れながら、
「帰化人は皆これ位の地位は頂けるのです。牛麻呂様。」
と答えると、宇合様が彼らに気が付いて、
「やっこれは失礼致した。お客人と話し中であったか。私は藤原宇合と申す者。」
と気恥ずかしそうに仰られますと、牛麻呂様が、
「これは藤原宇合さん、お初にお目に掛りま。朝元の遠縁の秦下牛麻呂どす。確かこの度の遣唐使の副使でいらっしゃったと記憶しておりまっが。」
「その通りだ。主が朝元の身元引受人か?」
「左様に御座いま。航海中は朝元めが偉い御世話お掛け致しました。」
「いやなに、私は何もしておらん。それどころか、朝元の奥方には私の新しい名前まで決めてもらい、世話になったのはむしろこちらの方よ。」
「奥方?」
 私は二人の話に割って入り、こう言ったのです。
「牛麻呂様、紹介が遅れました。この度元服した後すぐに一緒になった梨花に御座います。」
「なんやて、かつてわてが家の采女(使用人)しはってた梨花さんのことでっか。これは目出度いでおま。道理で唐へ行ったきり帰らんと思っておったわ(梨花の乗る新羅船は、それ程の危険性は無い)。」
と牛麻呂様が驚くと、梨花は私の横で恥ずかしそうに会釈致しました。ここで宇合様が、
「いや御邪魔した。私はこれでな。では朝元、また会おう。」
と仰って、その場を立ち去りなさったのです。そしてお辞儀をしていた牛麻呂様が、私の方に向き直ってこう仰ったのでした。
「朝元、いや朝元さんかな。ここから太秦までは些(いささ)か遠(とお)おます。お二人とも馬は大丈夫どすか。」
「止して下さい。牛麻呂様、朝元とお呼び下さい。馬は二人とも大丈夫です。それより御厄介になる者が一人増えてしまいました。申し訳御座いません。それからこれは、父弁正より預かりました返書で御座います。」
「なんてことおまへん。何人でも大歓迎どす。返書は確かに受け取りました。父上が昔住んでいた葛野(かどの)の広い舘には、今は誰もおらへんので荒れ果てておりまっが、すぐに住める様に整えておったんどす。だが、まずは今夜は我が家に泊まっていきなはれ。実は今日、わても父親となるかもしれまへんのや。家の中は大騒ぎやが、気にせんといて。」
「はい、大変な時にお邪魔させて頂き、誠に申し訳御座りませぬ。」
「えぇがな、えぇがな。それでは出発どす。後で唐でのことや航海のことなど詳しく教えておくれやす。」
 そう牛麻呂様が仰り、一同は牛麻呂様の連れてきた馬に飛び乗って太秦へと出発致しました。荷物は牛麻呂様の従者と共に後でゆっくりと届けさせて頂くこととし、大麻呂は道慈法師様に付いてそこで別れ、まずは牛麻呂様の夕餉の席へと急いだので御座います。
 それから日もとっぷりと暮れてからようやく太秦の里に着くと、広い屋敷の門にいた厳(いか)つい者が早速近寄ってきて、こう告げたのでした。
「旦那様、お生まれになりました。男の子で御座います。」
「おぉう、さよか、それは目出度い。それからこちらは従六位の秦忌寸朝元(はたのいみきあさもと)さんご一行さんや、粗相のない様にするんどすえ。」
「ははぁ。承って御座います。ささぁ、朝元様、奥方様もこちらへ。」
 その顔が傷だらけの舎人(男の使用人・名は国栖赤檮(くずのいちい))に案内されて屋敷の中の囲炉裏のある部屋に通され、牛麻呂様が何やら行かれてしまったのでしばらく待っていると、戻ってきて妻と二人で奥の方へと通されました。
「お二方、これが妻の白女(しらめ)や。さっさ、こちゃに来て我が嫡男の顔を見ておくれやす。」
と仰られましたので、妻と二人で一番奥の部屋に行くと、牛麻呂様が座っている横に、その若い奥方様の白女様が臥せっており、その横には元気な赤子が寝ておりました。
「さぁさ、御二人とも、見ておくれやす。」
 私達が部屋の中に入って赤子を見ていると、続けて牛麻呂様が仰られました。
「御覧の通り年齢を取ってからの嫡男なせいか、殊の他愛おしく思いま。親としては出来る限りのことはしたいと思っておます。そこでや。お二人が今日わての舘(たち)にいらはったその時に、このやや子はこの世に生を受けたんどす。聞けば、朝元さんの奥さんは藤原宇合さんのお名前もお付けになりはったとか。どないやろか、これも何かの縁や、生まれたばかりのこのやや子に目出度い名を付けておくれやす。」
 突然の申し出で私は何と言って良いか分らずにいると、妻の梨花が自らこう答えました。
「私の様な者で宜しければ、お役に立ちたく思います。」
「おぉ、それはおおきに。ゆるりとここに滞在して決めておくれやす。」
「いえ、もう浮かびました。嶋麻呂様が宜しいかと存じます。」
「えっもうどすか? 嶋麻呂、なかなかよろしゅうおますな。ところで、『麻呂』の字は私の名の牛麻呂から来たことは分かりまっが、『嶋』の字は何処から来たんやろか?」
 牛麻呂様の問に、梨花は再び即答したのです。
「はい、『嶋』の字は、我らが今回渡ってきたこの日本の別名を『大八島』と云う所から取りまして御座います。」
「おおっ、それは雄大で良い謂れでおますな。それに、お二人が今日いらした意味が伺えおます。うん、嶋麻呂、おい白女、この子の名は嶋麻呂としたいんやが宜しいおますか?」
と牛麻呂様が仰ると、寝ていた白女様が、