一縷の望(秦氏遣唐使物語)
延暦寺の出来る前の日枝山ですから山には山王権現しかないので、かの僧は自ら山の一角に気に入った場所を見つけて庵を作ったのです。そこを拠点にして山籠りに入ったのでした。そして出世する道を捨て山に籠る狂おしいまでの目的を、最澄様は「願文(がんもん)」と云う形に表され、それを示す自らを、「愚かな者の中でも最も愚かな者、狂っている者の中でも最も狂っている者、塵芥の如き生き物」と称したのです。その願文とは、次の五つなのでした。それは先程のお気に入りの言葉も、自分の信条として詳しく説明されて取りいれられたのです。
第一、私は、私の眼(げん)、耳(に)、鼻(び)、舌(ぜつ)、身(しん)、意(い)の六根(ろっこん)が仏と同じ清浄にならない間は、世間に出て活躍しない。
第二、仏の真理を知る智慧(ちえ)が身に付かない間は、世間的な才芸に関わらない。
第三、清浄な戒律が身に付く以前は、檀家からの招待は受けない。
第四、いまだ仏教の真の智慧の心が得られない内は、世俗の仕事に付かない。
第五、過去・現在・未来の間に自分が修行して得た功徳を、我が身一人のものとはせず、一切衆生に施して、全ての人が無上の悟りを得られるようにしたい。
この事は重要なことでありました。何故なら、これまでこの様なことを態度で為してきた行基大僧正様の様な僧は居りましたが、仏道の目的をはっきり言葉にしたのは、最澄様が初めてであったからです。これまでの仏教と言えば、祈祷や自らの出世の為の学問であり、人々を導く行基大僧正様の様な方は例外的な存在だったのでした。この精神は、実は最澄様の生まれる前の姿である泰澄大和尚が、日々山岳修行の時に唱えていた、『懺悔♪、懺悔♪、六根清浄♪』と云う掛け声を最澄様も無意識の内に気に入って唱えていたからなのです。
またこの時、最初の誓い通り大蔵経(漢訳の当時あったお経全て)を読破してしまいます。しかし良き師を得られぬ為、雑密(民間に広まっていた密教)の知識は知らぬままで終わってしまっていたのでした。ただせっかく山籠りをしているのに、玄ぼう法師様や道鏡法師様の様に密教の知識を蓄えられないことに、次第に焦りの様なものを感じ始めていたのです。延暦七年には庵の様な粗末な比叡山寺を建立して修行を続け、その間に秦澄大和尚様達がお作りになった修験道の行者が日枝山に立ち寄ることもあり、彼らと話をする内に、密教への想いは募るばかりなのでした。その一方、秦氏の行表法師様の弟子の最澄と云う見所のある若い僧がいることが、秦氏の間でも広まり始めた様でもあります。ただ最澄様と我ら秦氏との関係は、実はこんなものでは無かったのでした。少し前述しましたが、最澄様と私(藤原常嗣)との間にはわずかながら縁があるのです。
第三章 不破内親王
葛城寺(かつらぎてら)の前なるや豊浦寺(とゆらのてら)の西なるや。おしとど、おしとど。
桜井に白壁しずくや好(よ)き璧(たま)しずくや、おしとど、おしとど。
然して国ぞ昌(さか)ゆるや。吾家らぞ昌ゆるや。おしとど、おしとど。
(光仁天皇の在位中流行った童謡(わざうた)『風評を子供を使って歌わせた上代歌謡』)
さて白壁王様が皇太子にたてられた時、既に還暦を回っておりました。前に申しました通り、皇子達は孝謙天皇陛下によって次々と粛清されてしまいましたから、この方はそれを避ける為に常に酒に酔って真意を隠し、付け込む隙を与えない様にしていたそうなのです。かつて白壁王様の息子である山部王様が、葛野の秦朝元様の所に学問を習いに来た時も、父は飲んだくれていて自分が皇族として芽の出ることはないだろう、と半ば諦めかけた発言をしていたことをご記憶の方もいるかと思います。それに対しこの歌は白壁王様が皇太子となり、やがて陛下(光仁天皇)になられたことを歌っております。飛鳥の葛城寺の前、豊浦寺の西に有ると云う桜井と云う井戸は、妻の井上(いのえ)内親王様を意味し、その井戸の白壁王様は好き璧しずく(素晴らしい人材)であるが、おしとど、隠し殿で、つまり隠れていらっしゃる貴人の意味かと思われ、そして(見事陛下になられて)国は栄え、陛下の家も栄える、と云う歌であります。
宝亀元(西暦七七〇)年十月一日、白壁王様が即位して陛下(光仁天皇)となられ、同年十一月、井上内親王様が立后し、その皇后陛下が四十路を過ぎてからの高齢出産でお産みになったと云う他戸(おさべ)親王様が、翌年立太子されます。この皇后陛下の妹は、これまでも度々話題となった不破内親王なのです。これまで神護景雲三(西暦七六九)年の呪詛事件で土佐に流されておりましたが、本人が許される間、実は部下の五人の女儒(女の召使い)達が井上内親王様にも仕え、その高齢出産を呪力によって可能ならしめていたのでした。本来この姉妹は双子の様に良く似ておりましたが、この呪力のお蔭で、姉である井上内親王様の方が若く見られた位なのです。因みに不破内親王本人が許されて都に戻されたのは、宝亀三(西暦七七二)年十二月のことで、罪は冤罪であったとして、内親王への復帰共々許されたのでした。
また白壁王様が陛下となられた時、その即位を後押した式家の参議藤原百川様等が周りのご意見を固めたのでしたが、次の陛下こそ完全な天智天皇系の山部王様を、今の皇太子の他戸親王様に代えようと次の様な陰謀を画策していたのでした。と言いますのは、少し前に陛下と皇后(井上内親王)が双六をしていた時、何か賭けようと云うことになり、陛下がこう仰ったことがあったのでした。
「ふむ。もしも朕が勝ったら、見目麗しい采女を一人貰おうかな。皇后がもし勝ったら、同じく見目麗しい男(おのこ)を一人、紹介しよう。」
その結果、勝負は皇后陛下の勝ちで終わってしまったのでした。先にも申しましたが、この時陛下は既に還暦を過ぎ、皇后陛下は五十路を過ぎておりまして、女子(おなご)や男を紹介されたとてどうなるものでも無い、と陛下はお思いだったのかもしれません。しかし、陛下は大変な勘違いをしていらっしゃいました。何故なら、皇后陛下が他戸親王をお産みになったのは四十路を半ばになってからであり、陛下はともかく、皇后陛下は真剣そのものだったのです。前述しましたが、これも不破内親王に仕える五人の女儒達の指導の元に回春の術を施されていたからに他なりません。陛下としては正月の冗談の積りだったのでしょうが、その後も何度か皇后陛下から催促され、いささか閉口されておりました。そこに目をつけたのが、当時参議だった藤原百川様です。百川様は、陛下にこう持ちかけました。
「恐れながら申し上げます。皇后陛下は双六の件、だいぶ根に持っておいでですなあ。」
そう言われると陛下は、朝議での凛々しい姿はどこへやら、誠に情けない顔をしてこう仰ったのでした。
「そうなのじゃ。そちに何か良い知恵はあるか?」
まだそれ程の年齢でも無いのに老獪な百川様は、ここぞとばかりに畳み掛けました。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊