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一縷の望(秦氏遣唐使物語)

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 真魚様は何度となく赤檮をお呼びになりましたが、二度と返事は無かったのでした。その後赤檮の亡き骸は、遺言通り火葬にされたのであります。こうして真魚様の幼年期・少年期に、三人の死が通り過ぎていったのでした。
 ところで真魚様が生まれる十年前、真魚様と宿命の関係にある三津首広野(みつのおびとひろの)(後の最澄)様が、前述しました様に近江国滋賀郡古市郷に、泰澄大和尚様の生まれ変わりとしてお生まれになりました。ご両親は、後漢の考献帝に連なる登萬貴王(とまきおう)の末裔の父三津首百枝様と藤原北家の庶子の母藤子様です。仲睦まじい夫婦ではありましたが、なかなか子宝には恵まれず、思い余った藤子様は日枝山(ひえのやま)(比叡山)に登って、子宝が授かる様に大山咋神(おおやまいくのかみ)様に七日間祈祷を致しました。五日目で鏑矢が音を立てて飛んできて、藤子様の股の間に突き刺さると云う夢を夫婦で同時にご覧になり、その夜広野様を孕まれたのだと伝えられています。
 実はこの母親の藤子様は藤原小黒麻呂様の妻の一人撫子様の仲の良いむ姉君だったのでした。その関係で時々小黒麻呂様もこの子の重りなどして過ごすことがあったのです。それはかの童が言葉を話し始めた三歳位のことでした。藤子様と撫子様が姉妹の話に花が咲いている間、庭で小黒麻呂様と広野様が話をしたことがあったのです。話はまず、小黒麻呂様が何気なくこの様に始められたのでした。
「ところで広野。お前は何になりたいのだ。」
 広野は可愛らしい顔の眉間に皺を寄せながら、こう答えたのです。
「叔父様、広野にはまだ、分かりませぬ。」
「そうか、それはいかんのう。童の内は夢を大きく持つものだぞ。」
「そうなのですか。大きな夢とは例えばどのような物を指すのでしょうか。」
「例えばだな、昔の偉人の誰それそれの様になりたいとか思うものなのだ。」
「そうなのですか。それでは叔父様の思う一番の偉人とはどなたですか。」
「それは決まっておる。輪が秦氏中興の祖秦河勝様のお仕えした聖徳太子様だ。」
「そうなのですか。ならば、この広野も聖徳太子様の様になれるよう励みましょう。」
「ほう、そうか、そうか。ははははは。」
 小黒麻呂様はそう言って笑うと、広野の頭を優しく撫でられたのです。
 その後広野様は目標の聖徳太子に近付くべく何にでも熱心に取り組む子となり、四、五歳の頃より一人で字を覚え、七歳の頃出家を願い出て、十二歳の時、生まれ故郷に近い近江国分寺で出家しました。そこにはあの唐僧道?様の弟子の国分寺の行表法師様(秦氏)が住職を務めておりました。その後、いつ寝ているのか分らない程修行に励んでおりましたが、背が低く、色白の丸顔で目が細く、男でありながら当時の女人の理想的な姿であった為か、年上の同僚の修業僧達の眼に止まり、ある夜、その修行僧達全員で悪戯をしようと襲ってきたことがあったのでした。広野様は必死で抵抗し、
「兄弟子達、何をなさるのですか?」
と叫ぶと、彼らはこう低く言ったのでした。
「大人しくしているのだ。そうすれば痛い目に会わずに済むぞ。何、すぐに終わる。」
 広野様はもがきにもがいて何とかその場を抜け出し、行表住職様の寝ている所まで逃げて参りました。住職は夜中に突然広野様が入って来たことに驚き、こう言ったのです。
「広野、どうしたのだ。怪我もしているではないか?」
 広野様はそう聞かれても、自分がどうしてこんな目にあったのか分らず、こう言うのが精一杯なのでした。
「分りませぬ。兄弟子達が、突如獣の様に私に襲いかかって来たので御座います。私はどうされるのかも分りませんでしたが、とにかく兄弟子達の形相に恐ろしくなり、ここへ逃げて来たのです。私は、もう兄弟子達の所へは戻れません。」
 住職は何があったのかを察し、翌日広野様を襲った修行僧達を全て破門にし、それ以降自らの部屋に広野様を寝泊りさせることとしたのでした。この時広野様十四歳、宝亀十一(西暦七八〇)年十一月十一日の出来事です。行表住職は次の日、
「もう教えることが無い。」
と言う名目で広野様を補欠として得度を許可してしまい、正式な法名も付けることとしたのでした。そこで行表住職様はどんな名が良いか、精神を統一して十一面観音様に祈ったところ、突然広野様が神懸かりされて、こう仰ったのです。
「広野のことは、我の一部の阿弥陀如来の眷属、金剛因菩薩に聞け。」
 しかし金剛因菩薩様の像など寺にありませんでしたし、曼荼羅もまだ伝わってはおりません。そこで行表住職様は、この様な言葉で何度もに祈られることとしたのです。
「名無阿弥陀仏、願わくば、眷属の金剛因菩薩様のお言葉を賜り給え。」
 すると再び広野様が神懸かりされ、この様に仰ったのです。
「我は金剛因菩薩、現世での名は泰澄、この広野は我の生まれ変わりならば、我が名の一字をとって『最澄』と名付けるが良い。」
 広野様はすぐに正気に返られましたので、行表住職様はたった今あったことを告げられ、広野様の法名を最澄とされることとしたのです。しかしあの様な衝撃的な体験をしてしまった為か、年頃になった最澄様でしたが、後述する空海様の思春期とは正反対に、その様な行為に対する嫌悪感が有り、男(おのこ)に対しては元より女子(おなご)に対しても何の感情も持てなくなってしまったのです。それが人として異常なことと教えられても、自分では修行への妨げにならなくて調度良いとしか思っておられませんでした。十九歳の時(真魚この時十二歳)東大寺の戒壇院で受戒され、僧侶としての栄達の道を歩み始めます。しかし、生真面目な最澄様が気に食わず、再び先輩僧からの性的な暴行を受けそうになり、事は再び未遂に終わったのですが、東大寺に居ることもほとほと嫌になってしまわれたのでした。かの僧は元々性格は大人しく真面目ですが、内に秘めた熱情は親でさえ時に驚かす程なのです。その為そんな事件があった後、潔癖で情熱的な性格は、普通の人なら修行の妨げとなる筈の情欲を全く無くしてしまい、その代わりそのはけ口はただただ修行を成し遂げることのみに費やされることとなるのでした。その結果かの僧は、
「受戒を受けてからが真の修行なのだ。生まれた時から縁のある日枝山に籠り、日本にある経典を全て読み尽くそう。」
等と言い出し、受戒を受けた年の七月、栄達の道をかなぐり捨てて東大寺を出奔されると云う行動に出たのです。その行く先は、自分の生まれるきっかけとなったと云う日枝山でした。そこに籠って修行をする決心をされたのです。最澄様と奈良仏教の対立の構図は、もうこの辺りから始まっていたのかもしれません。
 季節は暑い盛りで、これから山の実りも多くなる一方で、山籠りを始めるには調度良い季節だったでしょう。
「懺悔(さんげ)♪、懺悔♪ 六根清浄(ろっこんしょうじょ)(目、鼻、口、耳、頭、心が清らかに)♪」
 山道を歩きながら、かの僧は何故か気に入っている仏典のこんな一節を繰り返していたのでした。