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一縷の望(秦氏遣唐使物語)

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「ここは大事な軍議の場、敵の蝦夷に通じているかもしれぬ族(やから)が同席する所で、全軍の作戦を立てる訳には参りませぬ。」
「道嶋様、それはあまりのお言葉、おい(私)はおめ(貴殿)と同じく蝦夷であり、位も同じす。敵の間者扱いは止(や)めてけれ。」
 そう言う呰麻呂様は、蝦夷らしく濃いお顔で目が大きく眉が太く、壮年でありながら少年の様な雰囲気を持っていらっしゃる方でした。大楯はこれに対し、こう言う屈辱的な言を発したのです。
「ほう、昨日や今日私と同格になった者が偉い口の利き様じゃの。お主は黙って我らの立てた策通りに動けば良いのじゃ。どうせこの場にいたとて、口の利き方も分らぬじゃろうからの。成り上がり者はこれだから厚かましい。手柄も自分一人で立てたものと言いたいらしい。」
「言わせておくがら(おけば)、うぅ、失礼するす。」
 そう言って、呰麻呂様は耐えきれずに退席なさいました。広純様も、話を先に進めたくてかの人を追い掛けて慰めるようなことはしなかったのです。この時、広純様がもう少し呰麻呂様を庇ってさえいたら、その後の悲劇は起こらなかったものと思われまする。
 またこの時の宝亀十(西暦七七九)年、大陸の渤海人と鉄利人が出羽国に大挙して渡来し、一部の蝦夷との間にいざこざも有りましたが、以前(西暦六六〇年)に既に同地に同じ人達が渡来していたことも有り、大部分の者がこの地に同化したのでした。この事実を、少し記憶しておいて欲しいのです。
 翌年、参議に出世した紀広純様は道嶋大楯を伴って、新しい城の建設の為の打ち合わせに呰麻呂様の本拠地の伊冶城を訪れました。兵の徴収も行おうと考えていたので、現地に来る必要があったのです。これはいわゆる俘軍と云うもので、蝦夷でありながら蝦夷を討つ為の兵となった人々による軍でありました。不用心なことに、広純様の護衛もまたほぼ俘軍のみであり、供は大楯と陸奥介大伴真綱様だけだったのです。
 伊治城に呰麻呂様と大楯だけがまず入城すると、呰麻呂様は物も言わず大楯を斬り捨て、
「思い知ったが。」
と一言啖呵を切って大楯の首を斬り落とすと、
「決行してけれ。大楯の首ぁ取ったは(ぞ)。」
と叫びながら、城の入り口まで出てきて首を高々と掲げたのです。すると、
「げげえ。」
と、表で待っていた紀広純様とお供の大伴真綱様は驚いて目を見張り、ふと周りの俘軍の兵達を見回すと、皆不格好な鬼の面をいつのまにか付け、城の前の呰麻呂様にそれを示したのでした。
「おおー。」
と歓声を挙げるや否や二人に襲いかかり、すぐさま紀広純様の首を落としてそれを示したのです。そして、真綱様は縛り上げられてしまったのでした。一瞬の内に制圧されてしまった広純様の軍は、広純様に味方する数少ない兵を斬り捨て、真綱様だけを多賀城に連行したのです。すると、多賀城の住民はけなげにも真綱様を守って戦おうとしてくれたのですが、肝心な真綱様が、城に残っていた石川浄(きよ)足(たり)様と共に呰麻呂様の隙を見て後ろ門から逃げてしまったのでした。住民も仕方なく、それに続いて散り散りに逃げ、蝦夷軍は無人の城を略奪した上放火して去ってしまったのです。
 これに対し朝廷は、南家藤原豊成様の一子藤原継縄(つぐなわ)様を征東大使に任命し、征討軍を出動させましたが、何ら戦果を得られず、戦いは拡大するだけでした。この反乱によって、伊治城とその周辺は朝廷からの支配を脱したのでした。これがいわゆる「宝亀の乱」であります。
 九月になって、いよいよ我ら秦一族の婿にして我が祖父の北家藤原小黒麻呂が持節征東大使として派遣されたのでした。蝦夷達が道嶋と敵対しての挙兵ですので、いささか複雑な気持ちでの出陣です。しかし数万の兵を動員しながら、実質二千の兵しか動かず、やったことと言えば蝦夷の通りそうな道を木や溝で塞いだのみで、根本的な解決に結びつく討伐には至らなかったのでした。その二千の兵は全て秦の者達で、軍事力にも建設技術者ともなり得る秦一族の強みなのです。しかも朝廷からの激励は、陸奥鎮守副将軍の百済(くだら)俊哲様が、桃生・白河郡などで奉幣社(勅命を受ける神社)を十一増し、陸奥鎮圧を神頼みすることしか無かったのでした。このようなひどい状況になってしまったのは、小黒麻呂様が就任した時点で兵と将の腐敗がひどく進んでいて、兵糧の横流し等日常茶飯事となり、老年にさしかかったかの人とは言え、武人として生きてきた訳でもなく、他の兵と将の腐敗を止めること等適わなかったのでありましょう。よって動いたのは、何万もの兵の内たったの二千の秦の兵のみで、敵を防ぐ為に道を塞ぐ位しか術が無かったのでした。また個人的に考えても、道嶋大楯の首を蝦夷が斬った時点で、蝦夷は敵の敵となり、闘志も沸かなかったのです。とにもかくにも乱はここで小康状態に入り、これを戦果として天応元(西暦七八一)年、祖父(小黒麻呂)は撤退するのでした。ですがこの時覚えた口惜しさを忘れられず、祖父は何としても何時かそれを晴らそうと固く決意するのです。
 その後(延暦元年六月十七日)は、何と七〇を過ぎた大伴家持様が、大伴氏の代表として陸奥介であった大伴真綱様の逃亡の責を取ると云う名目で、陸奥按擦使持節征東将軍となったのです。これは、陸奥対策を真面目にやっていない朝廷側の真意を表すと共に、先に奈良麻呂の変の時、関わりを持たずに処分を免れたとは云え、明らかに首謀者と見做された大伴家持様の死に場所を与える人事でもありました。歌人としても高名な家持様は、万葉集の編纂と云う大仕事も終わり、心おきなく陸奥へ赴けたのかもしれません。ただ現実は厳しく、元々病を得ていた家持様は、陸奥に着いてすぐに何もしない内に病気で亡くなられてしまったのでした。考えてみるとこれは、道鏡の失脚でまたも頭角を現しだした藤原氏による死への左遷人事でもあったのです。当時の大納言が式家の藤原田麻呂様、中納言が南家の藤原是公(これきみ)様なのでした。またそんな時、延暦二(七八三)年正月八日、ついにあの道嶋嶋足が病には勝てずに亡くなったのでした。これで、いよいよ物部を仇と見る必要性も失せたかに思われます。

第二章 真魚と広野
色は匂えど散りぬるを我が世誰ぞ常ならむ有為の奥山今日越えて浅き夢見し酔いもせず   
(悉曇輪略図抄所収 伝弘法大師作)
 冒頭に紹介しましたのは、有名な「いろは歌」です。弘法大師様の作と伝わっており、大師が大工達の為に作った歌とも伝わっております。意味は、「桜の花の色(若い女性)は美しいが、散ってしまうものです。どのような美女であろうと、それがいつまでも続く訳ではありません。越えられぬ人生の山を越える様な、浅はかな夢に酔うことは出来ないのです。」と表面上は解釈できますが、暗号だとも言われております。
 さて話を真魚(後の弘法大師空海)様に戻しましょう。多度都の阿刀の舘に厄介となることとなった吉備真備様一行でしたが、宝亀六(西暦七七五)年十月二日、まもなく真備様は帰らぬ人となってしまわれたのでした。真備様は、最後に看病する国栖(くずの)赤檮(いちい)の手を取ってこう仰ったのです。
「国栖赤檮よ、今まで本当に良く尽くしてくれた。礼を言う。」