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一縷の望(秦氏遣唐使物語)

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 丸々と太った赤子は、まるで私の言葉が分るかの様に笑っておりました。
「朝元(あさもと)様、泰(たい)澄(ちょう)大和尚(だいおしょう)様、御照覧あれ。ついに後継者を見つけましたぞ。名を真魚(のちの弘法大師空海)様と申しまする。この子こそ一族の対立を無くし、しいては真の日本の平和を齎してくれるものと信じまする。」
 真魚様の母親の阿古屋様も目を覚まし、意外なことの推移に耳を澄ましていた様でしたが、私の最期の言葉に、意味が全て分ったとは思えませぬが、集まった佐伯と阿刀の者達も思わず歓声を挙げたのでした。
































第三部 藤原常嗣と後継者達(種継・桓武・薬子・空海そして円仁(えんにん))
 初めて書かせて頂きます。私の名は、藤原常嗣。正確には秦一族とは申せませんが、父の思いを強く受け継ぎ、その一縷の望を適えるべく最期のあがきをなした者かもしれません。話は私の生まれる前から始めますが、これは父や祖父の話を総合して作り出したものですので、どうぞご容赦願います。それでは早速語らせて頂きたく存じます。               
第一章 宝亀の乱
 天皇(すめろぎ)の御世栄えむと東(あづま)なる陸奥(みちのく)山に黄金(くがね)花咲く (万葉集所収、大伴家持作)
 そもそも真魚様の氏族である佐伯の祖である蝦夷との戦いは、この時(天平勝宝元年、西暦七四九年)陸奥に金が見つかってから、朝廷の陸奥を見る目が変わってから始まったのかもしれません。吉備真備様の章でも申しました通り、この時見つかった金鉱こそ、我ら一味の長でもある良弁大僧都様の祈祷によって発見されたと言われているものなのです。
 さて蝦夷と申しますと、以前韓国広足と決戦した時、「後は陸奥だな」と国栖(くずの)赤檮(いちい)が呟いた様に、陸奥の蝦夷は我々秦と微妙な関係にあったのでした。微妙と云うのは、韓国広足にしろ道鏡にしろ、我ら秦よりもむしろ物部氏の系統と云う感覚なのです。物部氏と秦氏は、日本に仏教を公式に導入するかで戦(いくさ)をして以来、親族でありながら敵同士と云う関係なのでした。物部が我らとの戦に敗れ、日本国に仏教が公式に入れられ、頭領の物部守屋の残党は機内に残って四天王寺の奴婢として働かされていて、陰で韓国広足の手足となって働いたりしておりましたが、残りの物部の残党は陸奥へ逃げ、特に牡鹿(秋田)を中心に勢力を持っておったのでした。
 陸奥が中央に目をつけられる様になってからしばらくは平穏でしたが、大きな乱が起こりましたのは、話が少し遡り、宝亀元(七七〇)年八月十日、都にいらっしゃった蝦夷の首長宇漢迷公宇久波宇(うかめのきみうくはう)様が徒党を組んで賊地(政府の支配下にない蝦夷の地域)に逃げ帰ってしまったのがきっかけだったと思われます。かの者には使者を使わして都へ戻るように説得したのですが、戻ろうとしないどころか、
「同族どご率いて、朝廷の守護する柵(砦)どごぼっこして(壊して)やるべぇ。」
と息巻いていましたので、例の道嶋(かつて牡鹿)連嶋足(むらじしまたり)らを使わして説得させたのでした。嶋足は恵美押勝の乱の時の手柄で大出世し、その後も順調に伸びて今や蝦夷出身でありながら正四位下近衛中将と云う高位なのです。
「おめ(お前)ら何をやっているが(のだ)。今からでも遅くはねえべ(無い)、都に帰るは(帰れ)。」
と言う嶋足の説得の言葉に宇久波宇様は、
「嶋足あ(は)親父と同じだから、蝦夷の心を売り渡して都の犬に成り下がったんべ(らしい)。おい(わし)らの事はほっておげ。」
「ほいどしゃべるな(馬鹿言うな)。反乱など起して、朝廷軍に勝てる積りが。」
「心配すれば分がらねぁ(心配するな)。当分は何もせぬは。お主の出世の妨げさなる様なことさせぬ積りだがら安心すんべ。すぐに事を起こす積りじゃったに(が)、こちらの足並みが揃わねぁ(ぬ)。都に帰って、自分の説得で、宇久波宇ぁ都には戻らぬに(が)乱は起こさぬことにしたとでも言っておげ。それならせっかく来たおめ(お前)の顔も潰れねぇべ。」
 そう言われてはさすがの嶋足もそれ以上説得できず、言われた通りに報告するしかありませんでした。取りあえず反乱の危機は無くなって安堵した朝廷ですが、宇久波宇様を許した訳では勿論無く、同じ年、先の恵美押勝の乱で手柄を立てた坂上刈田麻呂様(田村麻呂の父)を鎮守将軍にしたのです。翌年には、今度は武門の誉れ高い佐伯美濃様にその役を交代したのでした。次に宝亀三(西暦七七二)年、老齢なものの有能な大伴駿河麻呂様を無理に陸奥の按擦使(あぜち)(数ヶ国の国司の代表)とし、翌年には鎮守将軍を兼任させたりして、最終的には宝亀五(七七四)年七月二三日、河内守従五位紀広純様を鎮守副将軍に任じられた時、事は起きてしまったのです。恐らくは宇久波宇様の配下と思われる蝦夷が、橋を焼いて道を破壊して桃生(ものう)城(今の宮城県桃生郡河北町)に攻め入り、その一部の建物を破壊したのでした。この城は、恵美押勝全盛時代に築かれたものです。いわゆる三十八年戦争の始まりでした。
 八月二日、坂東八国に合わせて二千以下五百以上の兵の召集がかかり、これを攻め立てたのですが、相手は遊撃(ゲリラ)戦を得意とし、一向に効果が上がりません。しかし秋になって鎮守将軍(大伴駿河麻呂)様は、敵の本拠地の一つである遠山村(現在の登米村)を直撃してこれに大勝利を収めたのでした。
 宝亀七(七七六)年二月六日、二万の軍勢で山海両面作戦を展開することが決定したのです。陸奥の出羽からも四千の援軍を得たものの、七月七日、老齢の鎮守将軍様が病没すると云う事故がありました。そこで、副将軍の紀広純様が後任となられたのです。十一月、三千の兵をもって胆沢(いさわ)(岩手県南地方)の蝦夷を成敗したり致しました。翌年正月、従五位大伴真綱様が陸奥介となり、紀広純様は陸奥守に昇進され、そして五月二七日、按擦使も兼ねることとなったのです。その後も討伐は順調に進み、賊を多く討って投降者も相継ぎ、宝亀九(七七八)年六月の論功行賞では、紀広純様は従五位から従四位へと昇進なされていたのでした。この時共に外従五位下を賜っている者こそ、伊治公呰麻呂(これはりきみあざまろ)様なのです。呰麻呂様は陸奥国伊治郡の有力者でありながら、朝廷軍に味方して伊冶郡の大領(長官、終身官)に任命されて朝廷軍に加わり、まず先の戦いで手柄を立て、紀広純様も最初は蝦夷と侮っていたものの、この頃には深く信頼されていた様でした。しかし、同じく牡鹿郡の大領として軍に加わっていた道嶋大楯は、兄の道嶋嶋足の権勢を傘にきて、同じ蝦夷でありながら呰麻呂様とは格が違うんだ、と云う態度を露骨に見せたのです。例えば、軍議で一緒になった時も、その様な言い方を大楯はしたのでした。
「広純様、この者(呰麻呂)もここに加わるので御座いますか?」
「何を言う。呰麻呂はこの度の戦で手柄を立て、外従五位下を賜ってるのだぞ。実に頼もしき奴じゃ。軍議に加わるのは当然だろう。」
と紀広純様が仰ると、