一縷の望(秦氏遣唐使物語)
「御主人様、お帰りなさい。実は長年の日本語の研究の結果、名付けて片仮名と云うものを作りましたので、ご覧に頂きたくご報告致しまして御座います。」
「何だ、人の供もせずに何やらやっているかと思ったら、そんな事をやっていたのか? 我が国には既に唐より渡来した真名(漢字も、仮名(万葉仮名)もある。これ以上言葉を増やしてどうしようと云うのだ。」
「それで御座いますよご主人様、私、唐の言葉から日本の言葉に翻訳する時、気付いたこ
とがあるのです。唐の言葉に仮名を付け加えたり、読む順番を予め書いておきさえすれば、わざわざ翻訳しなくても、そのまま日本の言葉として読めるのではないか、と。」
「はあ、それはすごいな。」
「はい、しかしその為には唐の言葉や万葉仮名よりも遥かに簡便なる仮名が必要かと思われます。そこで役立つのが片仮名なのです。」
良い年齢をして興奮気味な袁の言葉につい引き込まれて、私は身を乗り出していたのでした。
「これは景教で使っている『あらむ語』で御座いますが、これと唐の言葉の一部、つまり片側の似ているものを探し出し、簡便なる文字とし、唐の言葉を日本語として読む時の助けとするので御座います。これがその例です。」
袁の示した紙には孔子様の言葉で、「有り?友自二遠方一来タル、不二亦楽シ。」と書いて御座いました。
「うむ、これは便利だ。さっそく図書寮(ずしょりょう)辺りの者達にそちと片仮名の紹介をしておこう。」
袁晋卿は私からの紹介が功を奏したのか、すぐに宮中に召抱えられ、音博士、大学頭、玄蕃頭を歴任し、宝亀九(七七八)年浄村宿禰(きよむらすくね)の姓を賜ったのでした。
袁晋卿のことが済んでから、せっかく共に暮らそうと思っていた老いた妻の鈿女が突然風病(脳卒中)に罹り、私を残してあっけなくこの世を去ってしまったのでした。さんざん苦労を掛けながら黙って?私の留守を守ってくれて、いつも本当に済まないと思っていた妻を、ようやく労わることが出来ると思った矢先のことです。私は袁晋卿や家の者だけでひっそりと弔いを済ませ、いよいよこの舘には何の未練も無くなってしまったことを思うのでした。そこで私は、秦氏のまとめとして最期の御務め、つまり秦澄大和尚様の御遺言を思い起こし、それを果たそうと決意したのです。そんな折の宝亀五(七七四)年、あの秦の束ねの一角を共に担って頂いた良弁大僧都様がご病気で身罷られた、と云う報を受け取りました。私は自らの死期も近いことを実感も致しましたので、国栖赤檮と秦隼麻呂を供に海を越えて先の決意を果たす為讃岐の方へ旅立つ決意をしたのでした。この三輪の舘と二教院のことは袁晋卿に全て任せ、先に鈿女との間の長男泉を大学寮の大学員下助とし、この度山部王の後任で大学頭となったものの、妻に似た気の短い性格がひどく評判が悪いことを風の噂に聞いて気に掛かってはいましたが、この機会を逸することは出来ぬと思って、あえて断行したのです。
最初に目指したのは、取りあえず秦氏の一族秦(はた)原(はら)倉下(くらじ)様の舘のある南海道(四国)の香川郡で御座います。もう梅雨も明けたのか、暑い陽の降り注ぐ茅停(ちぬ)の海の海岸線の官道を何里も歩み、青い空の下、碧い海と低い丘の幾つかを左右に見ながら、私にとって久方振りの、いや恐らく初めてののんびりとした旅でありました。そんな旅の最中の六月十五日、秦氏の舘の在る辺りを通り過ぎて、多度津の方へふと足を向けてみると、とある舘の方が光り輝いて見えました。人に聞きますと、そこは阿刀大足と云うこの地の豪族の舘と云うことで、その妹に当たる方と佐伯直田(さえきあたいた)公善通(ぎみよしみち)と云うやはりこの地の豪族との三男が今日無事生まれて、その祝いの真っ最中と云うことなのです。一行はそこでそちらを訪ねてみると、中には佐伯と阿刀の一族が集まり、三男の誕生に沸き返っておる最中で御座いました。我らが近付くと、中の主人らしき男が気が付き、大声でこちらに話し掛けてきたのです。
「おおい、旅の方、何がでっきょんな(何をしているんですか)。今日は我(わ)がの(私の)三番目の息子が生まれた良き日ぜよ。どうぞ上がって行くまい(行きなされ)。我がの名は佐伯直田公善通と云うがぜよ。」
我らは、やはり、と内心思いましたが、何食わぬ顔で誘いに乗り、舘の中へ入り込んだのでした。この「佐伯」姓は元々蝦夷なのですが、中央政府で頑張っている「佐伯」とは違い、遠い昔のある時期捕虜として連れて来られた蝦夷達が、分散配置されてこの地に移り住み、名だけは統一して佐伯としたと云う訳なのです。そして舘の中に招かれた真備様は、ここぞとばかりに質問されたのでした。
「時にお子の名は何とつけなさる。」
「名は真魚(鯛の意)と付けたぜよ。母親の阿刀の阿古屋が真魚を産んだ夜、夢の中にやんごとなき天竺の和尚様が現れ、『我マナ(外来魂)となってこの子の体内に入らん』と告げられ、たちまち何か丸い玉になって阿古屋の身体の中にしまわれたんぜよ。そこで真の魚と云う字を当てたんじゃき、皆『まお』と呼ぶがぜよ。」
阿刀氏は物部に連なる氏族で、出身者にあの義淵僧正様や玄ぼう法師様等がいて、術者の血筋と言えましょう。
「ほう、『まな』とな。ちょっと抱かせて下さらんか。」
「えぇが、えぇが、ほら気を付けて抱くがぜよ。ほんに人なっこい子ぜよ。」
その言葉の通り、見ず知らずの私が抱いてもその子は声を立てて笑っておりました。その傍らには、兄と思える幼子(佐伯鈴伎(すずぎ)麿(まろ))がいつの間にか寄り添っていて、見知らぬ老人が可愛い弟を抱き上げるのを、心配そうに見上げておりました。
「おぉ、貴相じゃ。この子こそ探し求めていた子に他ならぬ。ご主人、済まぬが我らここにいてこの子の側にいたいんじゃが。」
「な、何を唐突に。一体あんた何処の誰なんかいの(なんですか)。」
「わしか、わしは吉備真備と申す者で、そなたら佐伯ともこの家の阿刀とも、縁(えにし)浅からぬ者じゃ。」
「げ、ほんにあの高名な真備様が。いかさま(ものすごく)驚いたぜよ。」
「ここにいる二人は秦の者で、年取った方は国栖赤檮と申し、若い方は秦隼麻呂と申す。そうじゃ、隼麻呂はすぐにここを立って香川に行き、わしがここに留まることをこの地の秦氏の秦原倉下様に伝え、後継者が見つかったことを一族の皆に伝えるのじゃ。」
「はっ。」
と短く答え、頭上を飛ぶ黒い鶻と共に隼麻呂はもう駆け出していました。私は父親の方に向き直り、こう頼んだのです。
「この子は長じては仏陀(信仰によって世の人の心を安んじる者)になるか転輪聖(てんりんじょう)王(俗世を統べる者)になる者じゃ。大事に育てねばならぬ。面倒は掛けぬ故、ここに逗留することを承知して欲しい。」
「真魚が、蝦夷の血を引く佐伯の子である私の真魚がかいの(で御座いますか)? その身なりを見れば、貴方様が尊きお方であることはわしにも分りますが。どうぞどうぞ何時までも逗留して欲しいぜよ。」
「そうか、それでは御厄介になるか、当初はこの先の香川の秦原倉下にでも厄介になる積りであったが、時が惜しい。一時でも多く、わしはこの喜びを噛みしめたいのだ。」
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊