一縷の望(秦氏遣唐使物語)
と命じられました。つまり左遷です。これは式家藤原雄田麻呂様の考えを、左大臣様が皇太子様に言わせたのでした。この日の内に道鏡法師は、下野(今の栃木県)に追いやられたのです。続けて道鏡の弟弓削浄人と、浄人の子三人が土佐国に流されたのでした。因みに、騒ぎの発端となった八幡神の託宣を出した太宰主神習宜阿曾麻呂(だいさいのかむつかさすげのあそまろ)様は、輔治能(ふじの)真(ま)人(ひと)清麻呂自身が再度の託宣を受けてくれたのも空しく、多?(たね)島守へ左遷と云うか流罪になったのです。そして清麻呂、姉の広虫様は、さっそく呼び戻されたのでした。ただ大隅での清麻呂の待遇は、雄田麻呂様の援助も有って極めて良く、都に戻るのが少し躊躇われた位なのだったそうです。また、この雄田麻呂様はこの時参議に昇進されたことを機に、「百川」と名を変えられたのでした。
左遷された道鏡法師が下野国の薬師寺の正門前に着くと、扉の中から異様な殺気が感じられたのです。法師はその場に立ち止ると、まず「不動経」をお唱えになり、次いで、
「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陳(じん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)。」
と、九字をお切りになってから転法輪印をお結びになって、
「緩くともよもやゆるさず縛り縄、不動の心あるに限らん。」
と九つのそれぞれの印を結びながらこう唱えてから、呪縛印を結び直されると、
「オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ。」
と、五回唱えながら足で寺の正門の扉を蹴破ると、門の中に潜んでいて、道鏡法師に飛びかかろうとしていた白と青と赤と黄色と黒の朝鮮半島の面を付けた五人の者達が、急に身動きが取れなくなってしまったのでした。そして襲いかかろうと刀子(短刀)持った姿勢のまま、「おのれー。」とそれぞれに呟きながら、歯軋りをしていたのです。法師は、一盤近くの者の持った刀子をもぎ取ると、黙ってその者の胸を一突きに仕留め、その者が崩れ落ちると、その次の者も、こうぶつぶつ呟きながら同様に止めを刺していったのでした。
「一撃で息の根を止めてしまわぬと、刺した瞬間に呪縛が解けるので、反撃され兼ねんのでな。皆うまく成仏致せよ。」
そして最後の五人目になりその者を見ると、彼は泣いているらしく、覆面から涙を、股間からは別の物を漏らしながら、金縛りのまま小刻みに震えているです。そして道鏡法師が近付くと、こう言ったのでした。
「命ばかりは御助けを。」
法師は軽蔑しきった様に鼻をふんと鳴らすと、賊の面を剥ぎ取ると、その者はまだかなり若い様で、面の中は涙と鼻水と涎を垂らしてぐちょくちょです。道鏡法師は、その顔を見ると少し苦笑して、こう言ったのでした。
「お前らが何者か言ったら、許してやろう。」
若い男は、何とかこう答えたのです。
「言う、言う。何でも言う。我らは左大臣(藤原永手)様が先頃作られた春日大社の警護を務める長谷川党の国栖の者だ。私はその中でもまだ入ったばかりで、まさかこんな刺客紛(まが)いの事までしなくてはならぬとは知らなかったのだ。許してくれ。」
それを聞くと、法師は血塗(ちまみ)れの刀子を黙って男の胸に突き刺し、男が声も無く倒れると、こう最後に言ったのでした。
「呪詛は一人一人しか出来ぬから、永手、百川、魚名、良継、吉備真備、誰からにしようと思っておったが、これで決まったな。まずは永手からじゃ。」
とそう言って、道鏡法師は一人高笑いをしたのです。これは、長谷川党に付いていて、事の次第を全て見ていた小者から、私が法師と対面した後に聞いたことで御座います。
十月一日、白壁王様が即位して光仁天皇となられました。白壁王様は還暦を過ぎてまで酒浸りであった所為か、酒太りで赤ら顔の丸顔で有ります。目は厚い贅肉の奥にあり、たいそう小さなものなのでした。その妻は亡き塩焼王の妻、不破内親王の姉の井上(いのえ)内親王様で御座います。この姉妹はすこぶる霊力が強く、それで姉は若い頃伊勢の斎王(いつきのみこ)を務めていた程なのでした。井上内親王様は異母姉である亡き称徳天皇に嫌われ、斎王とされてしまったとも言われております。また白壁王様には、元々和新笠様と云う愛妾がおりましたが、かつて井上内親王様が斎王の務めを終えられて既に婚期を逃して困っていた時、この将来性の無い皇族の白壁王様に妻として押しつけられると云うことがあったのでした。
また称徳天皇陛下が崩御する時、道鏡法王のこともあり皇太子のことははっきり決めずに有耶無耶になっておりましたので、ここで次の陛下を決めなければならなくなってしまいました。私(吉備真備)は、左大臣(北家藤原永手)様や弟の参議魚名様、同じく参議式家宿奈麻呂(すくなまろ)様・百川(ももかわ)(かつての雄田麻呂)様兄弟が白壁王様を押すのに対し、白壁王様は天智天皇系(藤原は天智天皇の家臣だったのでこちらを推していた)なので反対し、天武天皇系の文室浄三(ふんやのきよみ)様や大市(おおいち)様(共に長屋親王の子で兄弟)を押したのですが、同じく北家の藤原百川様からの圧力があったらしく、浄三様も大市様にも高齢を理由に本人から固辞されてしまったのです。因みに浄三様は古希(七十歳)を、大市様は還暦を遥かに過ぎておりました。この百川様は雄田麻呂と名乗っていた若かりし頃、山部王(後の桓武天皇)様のお供をして、葛野の秦朝元様の元に何度も通われていた方なのです。時を経て人生の辛酸をなめ尽くしてきて百川と名を変えられた雄田麻呂様は、もう四十路に手が届こうとしていたこの時、既に老成した政治家にお成りになっていたのでした。年齢を重ねられて老獪になっても、山部王様への忠誠と期待は何ら変わっていなかったのです。その期待とは前にも言いました通り、新羅系渡来民の秦氏のものでもあると同時に百済系渡来民の悲願でもあり、言うなれば両者が真に一体化する象徴的な存在でさえあったのでした。
そうこうしている内にその百川様が称徳天皇の遺勅を捏造して、皇太子を白壁王様としてしまいました。度々の粛清劇で天武系の皇族が絶え、ついに天智系と半々の血統である老齢の白壁王様が皇太子となられたのです。これは渡来民のことなど頭に無い藤原にとっては完全天智系を目指す悲願達成への布石であり、次の完全な天智系である山部王様(後の桓武天皇)即位を目指すことを意味するのでした。なお百川様の兄の宿奈麻呂様は、これを祝して名を「良継」と変えられたのです。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊