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一縷の望(秦氏遣唐使物語)

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呂、書足、稲万呂、真勝、泉、枚男(ひらお))と国栖赤檮と秦隼麻呂を供に付けたのです。旅の途中、今にも雪の降り出しそうな曇り空の下、突如覆面をした数人の男達が襲いかかり、清麻呂を亡き者にしようと致しました。しかし、年を取ったとは言え赤檮は豪の者ですし、私の息子達も腕の立つ者ばかりでしたので賊共は苦戦し、隙をついて清麻呂に手を掛けようとした途端、かの方が手に持った太刀で賊の顔の覆面を剥ぎ取られたのです。露わになったその顔は、恵美押勝の首を取った隻眼の石村石盾で御座いました。石盾が刺客と云うことは、道鏡法王の命に間違いなかろうかと思われます。清麻呂はすばやく二の太刀を浴びせかけますと、石盾は態勢を崩して、清麻呂の乗っていた車から転げ落ちたのです。そこをすかさず、隼麻呂の鶻が顔面に襲い掛かり、さらに彼の太刀は石盾の心の臓を突き立てて絶命させ、それを見た賊共は一目散に逃げ出したので御座います。それを確認した清麻呂は、こう言ったのでした。
「もう足の不自由な振りをしなくても良いかな。」
「はい、誰かに問われたら、八幡神の御加護で足が生えて来た、とでも言っておけば良いでしょう。」
と秦赤檮が答えると、
「うむそうだな。それにしても、隼麻呂は足が速いだけでなく、武芸も強いな。」
と清麻呂が言ったので、隼麻呂は照れながらこう答えたのでした。
「国栖赤檮様仕込みですから。さっ、それより先を急ぎましょう。道鏡はまた襲ってくるやもしれません。」
「そうだな、行こう。それにしても、最初に石村石盾を倒しておけたのは幸いだった。彼奴がしくじるとは道鏡も思っていなかったろうし、ここまで足が不自由な振りをしてきた甲斐があったというものだ。それにしても、足の悪い振りは疲れたぞ。」
「こちらも、重い車を引かずに済むと思うと安堵しました。はっはっはっ。」
と隼麻呂が答え、八名は明るく笑ったのでした。因みに清麻呂が流罪になっている時、式家藤原雄田麻呂(後の百川)様がこれに同情し、またいつか自分が政権の中心になった時部下に使う為恩を売っておこうと、密かに仕送りをして援助されたのです。またこの時法均尼様が流罪となられましたので、私(吉備真備)からの提案で、一人娘の由利を陛下付きの采女として差し出したのでした。陛下からの情報を途絶えさせない為です。由利は阿倍稀名の妻でありましたが、外見は妻に似てすらりとして活発でしたが、性格は私に似た様で、こちらが心配になる程控え目で生真面目なのでした。
 宇佐八幡託宣事件の一方、夫の塩焼王を失った不破内親王は、県犬養姉女(あがたいぬかいのあねめ)(親王付の女官)、石田(いわた)女王・忍坂(おさか)女王(五世以下の皇族の女性)と共謀して、異母姉の陛下(称徳天皇)を呪詛したとして、土佐に流されてしまわれたのでした。目的は、塩焼王(氷上真人塩焼)の長男、氷上志計志麻呂(ひがみしげしまろ)を皇位に復帰させようとしたものなのです。呪詛は、まず陛下の髪を盗み、佐保川から拾ってきた髑髏に入れ、大宮内に持参して三度に渡り呪詛した、と云うおぞましいものでした。この罪で県犬養姉女は姓を犬部と変えられ、全員が都での居住を禁じられ、志麻呂は土佐に流されたのです。しかしずっと後(宝亀三年、西暦七七二年)に、これは道鏡法王の手の者による讒言(偽りの密告)であることが判明し、皆罪を許されて処分は撤回され、身分は元に戻されたのでした。
 この様に陰謀の限りをつくした道鏡法王も、恵美押勝同様悪運のついに尽きる時が参りました。宇佐八幡の再託宣の件で法均尼様、清麻呂を処分されても時既に遅く、多くの秦氏の中級下級貴族達が私の指示で宮中に流した事の顛末の噂が広がってしまい、それを押し切ってまで道鏡を皇位に就けること等出来ず、由義宮(河内国弓削郡)に西都を作ると云う詔を出すのが精一杯なのでした。そこは道鏡の故郷でもあり、造営は法王の弟の大納言(弓削浄人)が中心になって行われました。そしてまもなく陛下はその宮でご病気に倒れられ、都に戻されたのです。皮肉なことに、あの豌豆瘡(天然痘)でした。
 これは少し前のこと、陛下が恵美押勝との戦いに必勝を祈願して建立を約されて、ご自身で造られた西大寺東塔の建築現場でその礎石を作ろう、と巨石を壊そうとしていた時、どこからともなく白い布を顔に垂らした老婆らしい巫覡が五人現れ、
「この石を壊すと祟られようぞ。」
と声を揃えて告げて去ったことがありました。現場の者は皆それを気味悪がって誰も壊せずに工事が滞っていると、工事の進行具合を見に来られた陛下が、それを聞いて激怒し、
「ならば朕が自ら石を壊すことを命じよう。さすれば祟りは皆朕の身に降りかかるであろう。安心して作業を進めよ。まず石を火で焼いてから酒を何度も掛けよ。さすればどんな
石でも粉々に砕けよう。」
と仰ったので、現場の者はその通り作業をして石を破壊したのでした。しかしやはり陛下は祟られておしまいになって、由義宮(ゆげのみや)に来られた時に豌豆瘡を発病されてしまったのです。この巫覡達は、実は恵美押勝の乱で斬殺された塩焼王(氷上真人塩焼)の妻不破内親王に仕える五人の女儒(女の召使い)達なのです。陛下は、最初に挙げた和歌「この里は継ぎて霜や置く夏の野にわが見し草は黄葉ちたり」の様に、礎石を破壊したわずか百日余り後の神護景雲四(七六八)年八月四日、あっけなく崩御されてしまったのでした。その間、誰も信じられなくなった陛下は、私の娘の由利だけを看病に残し、由利はただ一人その看病を務めたのです。また由利は、陛下の病が豌豆瘡であることの意味を理解していましたので、誰とも陛下を合わせなかったばかりか、私や夫の阿倍満月麻呂ともそれ以降連絡を取らなかったのでした。そして陛下の死後、豌豆瘡がうつって、誰にもそれを知らせずにその直後に死に、ひっそりと荼毘に伏され、私や満月麻呂の元には、ただ形式的な死亡通知が届いただけなのです。その通知を受けた時の私と夫の阿部満月麻呂の悲しみは、いかばかりであったことでしょう。なおこの時、道鏡法王の方はと云うと、陛下の陵墓に留まってひたすら経を唱え続けていたと伝えられます。
 藤原家の興福寺に、亡き光明皇太后の作らせた阿修羅像と云う鬼神像がありました。この仏像の三つの顔は、皇太后が娘に似せて作ったと伝えられています。その憂いを秘めた顔や怒りの表情、穏やかなものは、まるで陛下が、生涯で為された事績のそれぞれにおいて見せてきた表情を物語っているかのように思われるのでした。それ程波乱に満ちた生涯であらせられたのです。
 すぐさま左大臣(北家藤原永手)様と右大臣の私(吉備真備)が相談して、白壁王(後の光仁天皇)様を皇太子と致しましたが、八月二一日、その皇太子様が令旨を発することには、
「道鏡法王は密かに長く企みの心を抱いていたと聞くが、亡くなられた陛下のことを考慮して重い罰を与えず、法王の地位を剥奪した上造下野国薬師寺別当とする。」