一縷の望(秦氏遣唐使物語)
国)で臥行者と二人で迦楼羅(かるら)(インド神話等に見られるアジアにおける西洋の天使。日本においては烏天狗のモデルと言われる)となり、お待ちしております。」
「良く言った。それでは本当にお別れで御座います。兜率天でも三人で歩きましょうぞ。」
と臥行者様が話し掛けられても、座って目を閉じた泰澄大和尚様には既に返事をする気力も無く、心の中で次の様に呟いていたのでした。何故かそれが、私の心にも伝わってきたのです。
『我、すぐにでもこの大八嶋に生まれ変わり、残された大業の続きを為さん。』
そして臥行者様、浄定行者様お二人が完全に消えてしまうと、泰澄大和尚様は一人結跏趺坐される形となり、私が脈を取ると、既に入定されていたのでした。
ちょうどその頃、泰澄大和尚の生まれ変わりとして、近江国滋賀郡古市郷におきまして広野と申す赤子がひっそりと産まれたのでした。もっともそのことが判明するのは、生まれてからもう少し後のことになるのです。それは一度生まれ変わったら、前世の記憶はすべてなくなってしまうからなのでした。この広野(後の最澄)と云う赤子は秦氏の後継者となる天分がありながら、人に知られることもありませんでしたが、やがて秦氏一族にとって重要な役割を果たすこととなるので御座います。
さて話を道鏡法王様に戻しますると、道鏡法王様は望みうる最高の地位に就かれましたが、その一族も出世し、特に弟の弓削浄人(ゆげのきよひと)様は最終的に従二位、大納言にまで登りつめます。また弟子の円興法師様は、小僧都にまでお成りになりました。権力を奪い返した陛下(称徳天皇)は、かの僧からの強い影響下、一言で言って仏教中心政策ともいうべきものを行なうのです。例えば、恵美押勝の乱に勝利した折に約束していた西大寺の造成に着手されました。また宇佐八幡に六百もの封戸を寄進し、そして法参議大律師となった寄進法師様と云う道鏡法王様の弟子に命じて、伊勢神宮寺(伊勢神宮の敷地内に作られた寺)に一丈六尺(約四メートル)の仏像を造らせたのです。さらにこの時、同法師が海竜王寺(かつて玄ぼう法師が初代住持だった寺)の毘沙門天像から仏舎利を見付けたとかで、それをすぐ隣の総国分尼寺の法華寺(称徳天皇の母親の光明子の創建)に納めさせる時、各氏から容姿の優れた壮年の男を選び、その者達二百人近くに様々な色の傘を持たせて行列させ、華やかに納めさせたのでした。この後、麗しい七色の雲が東南の方角にかかるのを陛下がご覧になったので、年号を神護景雲と変えられたのです。またこの時、故秦朝元様のご長男の秦真成様が、仏舎利を新たに納めた法華寺を拡張工事をする為、造法華寺判官となられました。真成様は医者の家業を継がず、普段から舘に出入りしている工人や職人の影響で、そうした道を歩まれていたのです。さらに道鏡法王様は、寄進法師様に宇佐八幡にはこの年比売神宮寺を作らせる等されてさらに恩を売り、道鏡法王様を天皇にすれば国家は安泰である、と託宣をする様にと取引をしたのです。その後寄進法師様は左道を行っていると言掛かり(同様なことは道鏡もやっている)を付けられ、飛騨国に流された上、道鏡法王の懐刀石村石盾の手によって口止めの為に消されてしまったのでした。
これだけの仕掛けを整えてから、神護景雲三(七六九)年九月二五日、宇佐八幡宮から都に、痩せた神経質そうな中年の太宰主神習宜阿曾麻呂(だいさいのかむつかさすげのあそまろ)様がわざわざやって来て、八幡神の託宣を厳かに朝廷に報告したのです。それは、次の様な内容のものでした。
「道鏡を皇位につければ天下泰平であろう。」
生涯独身で血を分けた後継者がいなかった陛下は、重祚(再び皇位に就くこと)した段階で後継者の問題があられました。皇太子に誰を立てるか決め兼ねている内に、道鏡法王
様にそこを付け込まれたのです。何故、これほどまでの野心を法王様が持たれたのか。それは物部の出の物として、物部守屋様の時に失われた栄光を取り戻そうと云う野心だったのです。しかし、これは自分の権勢に酔って自らを過大な評価した結果、明らかにやり過ぎの感がある話しでした。この行き過ぎた野望は皮肉なことに、法王様の権勢の寿命を地ヂ攻めることになるのです。つまりさすがに陛下もこれを驚き怪しみ、この託宣が本当なのか迷っている内に、夢の中に八幡神が現れて、
「法均尼(かつての広虫)の派遣を請う。」
と告げられたのです。そこで法均尼様を呼び出してその事を話したのですが、彼女は、
「私は身体が弱く、とても長旅には耐えられないでしょうから、私の弟を派遣して下さい。」
と返答されたのでした。早速弟の輔治能(ふじの)真人(まひと)清麻呂が呼び出され、この使命が与えられたのです。これは身の危険を感じた法均尼様が、弟ならばこの役目を正しく全う出来るだろうと見込まれてのことでした。清麻呂は二教院における私の愛弟子で、この時三十路を半ば過ぎ、名前の如く潔癖で不正が嫌いなのです。風貌は着痩せのする筋肉質の身体でしたが、優しげな顔に威厳を持たせる為、近頃髭を蓄え始めたのでした。
清麻呂は、旅立つ前に秦の一味の同士である二人の者に別々に呼び出されました。一人は道鏡法王(完全に一族の敵となったので、これ以降敬称略)その人で、もう一人は私(吉備真備)でした。道鏡法王の言うことには、
「清麻呂、そちは分っておろうな。八幡神が使者を送れ、と夢で告げたのは、私の即位の事を告げようとした為に他ならん。ちゃんとした神託を持ち帰れば、重い官爵を以って報いよう。」
と云う念押しで、備前訛りの無くなった清麻呂は、
「分っています。お任せ下さい。」
と答え、一方私は、
「道鏡は我らの仲間だったが、寄進法師の件と云い、陛下を誘惑して政(まつりごと)を私(わたくし)していることと云い、見過ごす訳にはいかん。あの様な目的で我らは動いているのでは無い。その上皇族でもない者が皇位に就きたい等というのは以ての外。お主(ぬし)のことは我らが全力で守る故、どうか真実の託宣を持ち帰って欲しい。」
と懇願しますと、愛弟子の清麻呂は同様にこう言いました。
「分っております。この清麻呂、道鏡の振る舞い看過すべきにあらず、と日頃から思っておりました。例え我が身がどうなろうとも、真実をお伝えすることをお約束致します。」
「そうか。では申しておく。正しい託宣を持ち帰ってそちにどの様なお裁きがあるかは分らんが、処分の実施の前に必ず時間を稼ぐのだ。そうすれば、どの様な処分を受けようと無事でいられるよう術をかける。安心して西海道(九州)へ行って来い。供に広嗣の乱の折、父親が隼人と知り合いになった秦隼麻呂(はたのはやまろ)を付けよう。」
と言って、私は清麻呂を送り出したのでした。こうして私は、再び仲間との本格的な争いへと突入してしまったのです。この時の言動がこれで本当に良かったのか、何度思い起こしてみても分からぬので御座いました。
さて、こうして清麻呂は宇佐八幡に、太宰主神習宜阿曾麻呂様と共に着いたのです。すると、憑依(よりまし)となって実際に託宣された辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)様と、この地方の実力者達が待ってお
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊