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一縷の望(秦氏遣唐使物語)

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論おりました。しかも彼が父親に手紙で教師としての私(吉備真備)のことを頻りに誉めるので、実は押勝の推薦で七男辛可知等がわざわざ筑紫まで来て学んでいたのです。私を煙たがっていた押勝でしたが、それだけその実力を認める度量もあったとも言えましょう。それらの教え子も押勝の乱以降は会ってさえおらず、特に刷雄は、流刑の為会える筈も無かったのでした。奈良の都に戻ってから設立した二教院での特筆すべき教え子と言えば、押勝の乱で活躍し、このお話でも参考資料としている『懐風(かいふう)藻(そう)』の編者を薩男や石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)(かつて藤原宿奈麻呂と共に恵美押勝に歯向かおうとした一人)と共に務めた淡海三船(おうみのみふね)と輔治能(ふじの)真人(まひと)清麻呂(後の和気清麻呂(わけのきよまろ))で、その内清麻呂は恵美押勝の六男の薩男以来の秀才であり、私の知り得る兵法、陰陽道の全てを出来得る限り伝授したのです。実は清麻呂とは、韓国広足討伐の折に筑紫の観世音寺で知り合ったのでした。因みにこの時、強い備前訛りも自らの意思で強制していたのです。この他には、種継様の従弟菅継なども私に陰陽道を学んでいたのでした。
 そう云えばそれとは別の話ですが、秦一族の秦朝元様の孫で教え子でもあった、弟子の菅継の従弟藤原種継様が天平神護二(西暦七七六)年、従六位上から従五位下へと昇進され、いよいよ歴史の面舞台へと秦一族の期待を一身に受けて、この頃ようやく立つこととなったのです。
 翌年(神護景雲元年)三月十八日、吹き荒ぶ吹雪の中、越前の越智山の大谷から都の私
(吉備真備)の所に猿面を被った浄定行者様がお越しになり、泰(たい)澄(ちょう)大和尚(だいおしょう) (かつての法澄)様危篤の報とすぐ来てくれる様にとの依頼を受けたのでした。私は浄定行者様と、恵美押勝の乱で使って気に入っていた秦隼(はや)麻呂を伴って、雪の中すぐさま大谷に向かったので御座います。彼は父親同様黒い鶻(こつ)を肩に、必要な荷物を笈に背負って黙って従ってくれ、その姿はかつて共に戦った父親と瓜二つで、思わず涙ぐんでしまいそうになってしまったのでした。そこで涙が零れるのを防ぐ為もあって、私は前回に会った時から気になっていたことを、私は失礼にも浄定行者様に尋ねてしまったのです。
「浄定行者様。」
「はい、何で御座いましょう?」
「実は初めてお逢いした時(二九年前)のことを私は良く覚えているのですが、浄定行者様の声は変わらず若々しくていらっしゃる。一体幾つなので御座いますか?」
 すると先を歩いていた行者様は立ち止ってこちらを振り向かれたのでした。そして猿面を外されて出て来た顔は、どうみても二十歳前にしか見えぬのです。私は内心、やはり、と思いながら、話を続けたのです。
「随分とお若くていらっしゃる。どう見ても二十歳(はたち)前にしか見えません。それにこれはその昔年齢を取らない化け物と会ったことがあるので、気になって仕方が無いことなのですが、浄定行者様は前回お会いした時からまるで年齢を取っていらっしゃらない様に思えてならないのですが、私の気の所為でしょうか?」
 私の不躾な問いに対し、浄定行者様は穏やかに答えて下さいました。
「私が御師様(泰澄)にお会いしたのが二十歳前でしたが、それからのことは何故か余り
覚えていないので御座います。あれから何年経っているのかも判然としないのです。何故
でしょうなあ。」
 この言葉を聞き、疑問は解決しなかったものの、私は今まで迷っていた次のことを確信するに至ったのでした。『この者も藻(みくず)の様に人では無い。では何なのだ。』
 私の疑問は解けぬまま目的地に着いてしまい、越智山三所大権現の別当寺(神社付属の
寺)の粗末でも新しい社の中に、赤ら顔を青くして泰澄大和尚様が寝ておられたのでした。傍らには例によって臥行者様が座して看病しており、その横に浄定行者様もお座りになられました。その間々には、火鉢が幾つか置かれてありました。私(吉備真備)が傍によって泰澄大和尚様のやせ細った手を取ると、
「おぉー真備様、この様な所まで良くいらして下さいました。ご覧の通り、私はもうこれまでの様で御座います。」
と大和尚様が仰り、火鉢が幾つもある筈なのに白い息が同時にもれたのでした。私はそれに対し、こう答えたのです。
「何を気弱な。後継者も見つからぬ今、まだまだ頑張ってもらわねばなりませぬぞ。それに大和尚に詫びねばならぬことが御座います。大和尚にあれほどくれぐれも言われていたのに、私は再び仲間同士の争いに手を貸してしまい、今後もそれをしない保証等無いのです。」
「気になさるな。それも御仏の御意志なのじゃろう。それから後継者のことじゃがの。どうやら後継者の誕生はまだらしいが、場所は南海道(今の四国)の讃岐の方らしいことまでは掴んだのじゃ。そこの若い者でも今から遣わして探索しておけば、すぐに見つかるかもしれん。」
「私は、亡き父調子麻呂が一子隼麻呂と申します。お言い付け、しかと承りました。」
と隼麻呂が『黒駒』を肩に留めたまま、少し近づいて申し上げたのでした。
「おぉそうか、隼麻呂か、頼もしいのう。あそこには、何とか云う秦の一族もいる筈じゃから、そこを頼って行くが良い。宜しく頼むぞ。それから臥、浄定、手を貸してくれぬか。拙僧もいよいよ入定(僧が極楽に行くこと)の時が来たらしい。二人で私が起きて結跏趺坐するのを手伝っておくれ。」
 二人の行者様は、大和尚を起こして座るのを手伝ったのでした。大和尚は目を閉じて手を大日如来の定印(じょういん)(臍の前で両手を組む)にされ、それが倒れないように両側に行者様が同じように座されたです。その時でした。浄定行者様が突然大きな声を挙げたのです。
「やや、これは奇怪。臥行者の身体が透き通り始めましたぞ。」
 すると臥行者様は少しも慌てる様子もなく、この様に答えたのでした。
「浄定、騒ぐでない。実は今まで隠していたが、私は人ではなく、随分前に死んでいたのだ。御師(泰澄大和尚)がそれを哀れに思い、反魂の法と護法童子の念を組み合わせて、その念によって造られた護法童子(念によって作られた人造人間)として蘇らせたのじゃ。御師の気力が弱られたので、私もこれでお別れの様で御座います。」
「そちが護法童子? やや、私の身体まで透き通り始めましたぞ。私は護法童子などでは
無い。父と母の記憶もある。一体どういうことじゃ。」
と浄定行者様がおろおろして叫びなさると、臥行者様が静かに云うことには、
「浄定慌てるな。今まで黙っておったが、そちも随分前に憑坐(よりまし)になる修行を始めてすぐ死んでおったのだ。そして私同様、御師が蘇らせてくれたのじゃ。死んだ時の記憶は封印してな。」
と言うことでしたが、浄定行者様はそれを聞くと覚悟を決めたのか、泣きながらこう言ったのでした。
「そっそうで御座いましたが、御師様、命の無かった所をお救い頂き、本当に有難う御座いました。御師様と臥行者様と楽しい暮らしで御座いました。御先に失礼して、兜率天(天