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一縷の望(秦氏遣唐使物語)

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と泣き叫ぶのを諸共せずに凌辱し、それが済むと、雑兵共が列を為して襲い、二百人を超す頃には既に東子様の息が絶え、それでも美しい屍に男共は群がり、さらに他の家族の女
性達も無残に殺され、私(吉備真備)自身が押勝の首を確かめに四名の息子達(与智麻呂、
書足、稲万呂、真勝)や秦赤檮と共に来た時には、もう人の屍の態を為してはいなかったので御座います。雑兵共の数が千だったかどうかは定かではありませんが、戦の習いとは言え、まことに惨いことで御座いました。この時藤原薩(よし)雄様は、父親(恵美押勝)の側にも追討軍にも加われず、ただ宮廷で謹慎しておりましたが、この話を聞いたなら、どんなに嘆き悲しんだでありましょう。それにしても、泰澄大和尚から引き継ぎの時、くれぐれも頼まれていたのに、再び仲間同士のこの様な悲劇を招いてしまいました。これも私の至ら無さの故と、痛感する次第で御座います。
 なお、横にいた不破内親王と五人の女儒達はかつては目の覚める程の美しさだったとは
言え、年齢(とし)を取ってしまっていることもありますが、東子様やその家族に雑兵共が群がり、逆に危害を受けなかったのでした。また親王まで手を掛けては、さすがに恐れ多いと思ったのかもしれませぬが、実は、戦の前に不破内親王の身だけはお守りする様に、私(吉備真備)の方からきつく石村石盾に申し付けてあったのでした。袂を分かったとは云え、元はこちら側の一味であった親王を害するのは、気持ちの良いものでは無かったからです。以上が、恵美押勝の乱の顛末なのでした。
天地(あめつち)を照らす日月の極(きわみ)無くあるべきものを何をか思はぬ
 これがこの章の最初に挙げた大炊王(おおいおう)の作の和歌です。歌意を繰り返しますと、「天地に照り渡る太陽や月の様に皇位は果てしないものである筈のなのに、何を思い煩おう。」となりますが、大炊王はこの後即位して恵美押勝の傀儡の淳仁天皇と成られる訳で御座います。押勝の逃走劇を前に宮城を包囲した兵に拘束された陛下は、太上天皇陛下(考謙)に乱の翌月廃位を宣告され、親王の待遇のまま小雪の舞い落ちる寒い日、淡路に流されたのでした。淡路までの道則は罪人として裸馬に乗せられ、雪の中、民の曝し者となったのです。さらに粛清は続き、廃帝の弟である船(ふな)親王様と、藤原薩雄(よしお)(恵美押勝の六男)様は名を刷雄と改めさせられた上、同じく隠岐へと流されたのでした。またやはり廃帝の弟である池田親王様も、馬を集めて謀反を企てたと言われ、土佐国へ流されてしまいました。さらに廃帝の弟の子三原王様は、恵美押勝の反乱を鎮圧するのに協力したものの、上皇(太上天皇)陛下と道鏡の死を呪詛したとの証拠が上がり、捕えられて土佐国に流されたのです。そして次の陛下の位は、上皇陛下自らが就き、称徳天皇となられたのでした。その為翌年、年号が改まり、天平神護と云う名となりました。廃帝はその年の十月、淡路からの脱出を図って捕えられ、道鏡禅師の命で石村石盾に斬られたものと思われます。自らのお作りになった歌の内容とは違い、利用されるだけ利用された、哀れな一生で御座いました。
 また恵美押勝追討に功のあった式家宿奈麻呂(後の良継)様は、失っていた名誉を回復して従四位下になられ、続けて天平神護二年には従三位と昇進されたのでした。
 さらに年号が改められて神護景雲元年正月、即位された新陛下は道鏡禅師の薦めも有り、恵美押勝の乱における悲惨な死を遂げた者達の霊を慰める為、塔輪は桜、塔身は檜で七寸(約二二センチ)の小さな三重の塔の模型を百万作り、真ん中を空洞にして中に有難い陀羅尼経を納めたのでした。そしてそれを五年かけて作り、東大寺や法隆寺等の十の寺院に十万基ずつ分けて祀ったのです。私は新陛下の勅命を受け、この月既に白山から近くの越智山の大谷の洞窟に移っていた泰澄大和尚様の元を尋ね、この百万塔の内一万塔を北陸道の寺で請け負って欲しいと要請しに行ったのでした。既に北陸道において宗派を越えて揺るぎない地位を確立されていた大和尚は、病床にありながらこれを快諾されたのです。
「よろしいでしょう。やりましょう。」
 これは、新陛下による仏教政治の始まりを意味していたのでした。
 因みに、新陛下の采女の法均(かつての広虫)様は、恵美押勝の乱で両親を失った子八三人を、夫葛木戸主(へぬし)様と共に引き取って育てたと云うことです。こうした慈善行為は出家する前からやられていましたが、こうした子等が成人すると、行基道場のある四九の寺や秦
氏の神社仏閣のどれかに引き取られ、秦部として活躍するのでしょう。

 第五章 道鏡
この里は継(つ)ぎて霜や置く夏の野にわが見し草は黄葉(もみ)ちたり
                        (孝謙・称徳天皇作、万葉集所収)
 これは二度の天皇となられた陛下(孝謙・称徳天皇)陛下の作で御座います。歌の意味は、「この里は霜が降り続くのでしょうか。夏野で見た草はすっかり紅葉しています。」ですが、権勢の盛りを過ぎた陛下の一抹の寂しさが感じられる歌で御座います。
 天平神護八(西暦七六六)年、道鏡禅師は太政大臣禅師を経て、ついに法王となられたのです。それと同時に私吉備真備(かつての下道真備)は右大臣となり、都に二教院と云う
私立の教育施設を作ったのでした。二教とは、儒教と仏教の二つの教えのことなのです。この二教院には、私が教えられる程度の数の生徒を、三輪にある我が家で学問その他を教えるものに過ぎませんでしたが、実は時間に余裕のある大宰府時代から「学業院」と云う
名で同様のことをしていたのでした。因みに以前唐から連れて来た従者の袁(えん)晋(しん)卿(けい)少年も立派に成人し、二つの学校の唐語の教師とし、さらに国栖赤檮(くずのいちい)は武術の師範として務めさせていたのです。また筑紫時代からの教え子にはまず息子の与智麻呂、書足、稲万呂、真勝、泉、枚男(ひらお)の六兄弟を始めとして、次に唐からの弟子であるまず恵美押勝の六男の薩男も勿