一縷の望(秦氏遣唐使物語)
と一言短く言うと、亡き秦調子麻呂の忘れ形見の隼麻呂はもう駆け出しておりました。その肩には、父同様黒い鶻(こつ)(隼)が留まっておりましたが、彼が走り出すのと同時に鳥も飛び上がり、飛んでその後を追い始めたのです。因みにこの鶻は、過ぐる年あの藻(みくず)狐に咬み殺された『甲斐』の忘れ形見で、名を『黒駒』と言ったのでした。隼麻呂は険しい田原道を急ぎ、巨大な近江の国府の町に入ると、国府の建物の前に朝服姿の壮年の男がうろうろしていて、隼麻呂の姿を見るなり近寄って来て、こう小さな声で忙しげに話しかけてきたのです。
「お主は吉備真備様からのお使者か?」
隼麻呂は、それが真備様から聞いていた淡海三船の容貌のままだったので、思い切ってこう答えたのでした。
「如何にも左様に御座います。造池使の淡海三船様とお見受け致します。拙者秦隼麻呂と申す者にて、中衛大将吉備真備様からの御伝言を貴方様にお伝えに参上致しました。中衛大将様の仰ることには、国府の中の恵美押勝の味方を倒し、直ちに勢多の唐橋を焼き落とせ、とのことで御座います。それから押勝からの使者はまだで御座いましょうな。」
淡海は隼麻呂にそう言われると、小声で耳打ちをしたのです。
「しっ、声が高い。既に押勝からの使者が来ていて、誰が何を言おうと勢多の唐橋を死守せよ、との伝言を伝えに来ておるのだ。ところでお主、腕は立つか?」
隼麻呂はすぐさまその言葉の意味を察し、反射的にこう答えたのでした。
「はっ、いささか腕に覚えは御座います。」
それを聞くと、淡船はにやりと笑いながらさらに続けたのでした。
「それは良い。これから建物の中に戻り、浄酒(すみざけ)を振舞って油断させておいた押勝からの使者をまず切り捨てるから、同時に従者の者はお主に任せるぞ。それでは太刀を抜いておけ。早速参るぞ。」
と言われ、太刀を抜いて隼麻呂に顎で合図をし、早速役所の中に戻ったのです。隼麻呂は、さすがに真備様が見込んだだけの方だな、と密かに感心しながらその後に続いたのでした。建物の中に入ると、中で酒を飲んで寛いでいた短甲(身分の低い者の当時の鎧)姿の使者の一行を物も言わずに突き殺し、ほぼ同時に従者の方は隼人麻呂が斬り捨てたのです。役所の者達は咄嗟のことに唖然として身動きもとれなかったのでした。その虚を突き、淡船はすかさずこう怒鳴ったのです。
「逆賊恵美押勝の使者はこの通り成敗した。尚押勝に義理立てする者がおれば、たった今申し出ろ。この淡海三船とその他一人がお相手致す。」
隼麻呂はそれを聞き、「おいおい俺は『その他一人』かよ。さっき名乗った筈なんだがな。名前位一度で覚えろ。」と密かに思っていると、淡海はすかさずこう続けたのでした。
「誰もおらぬか。ならば直ちに橋を焼き落とす準備を致せ。」
この淡海三船は、南家の藤原薩雄様や恵美押勝様暗殺の企てに加わったこともある石上宅嗣様と共に、以前我が国最初の漢詩集「懐風藻」を編纂したこともあり、後に大学頭兼文章博士にも任ぜられ、最終的には従四位下にまでなるのです。隼麻呂は橋を焼くのを手伝いながら、密かにこう呟いておりました。
「恵美押勝と吉備真備様の戦術の読み合いは、恵美押勝がほんの一歩先んじていた。しかし真備様には淡海三船様と云う信頼に足るお方がいて、結局は真備様が先んじる結果と相成った。やはり人なのだ。確かに押勝自身は優秀だったが、独裁者の彼の回りには、身内以外の人は集まらなかったのだ。人望の差とでも言うのかな。」
こうして勢多の唐橋は落とされ、反乱軍の退路は断たれたのでした。反乱軍はそれで迷走し、高嶋軍(湖西地方)から越前に向かおうとしたのですが、私の献言で越前にも追討軍は先回りして押勝の味方をする国守を討ち取り、反乱軍を待ち構えたので御座います。それを知らぬ押勝軍は、押勝の傀儡であった筈の陛下(淳仁天皇)も落ち目の押勝の逃走には付き合ってはくれませんでしたので、先の事件(奈良麻呂の乱)での処分に手心を加え、さらに中納言に任じて恩を売っておいた氷上真人塩焼(ひかみのまひとしおやき)(塩焼王)を「今帝」に押し立てて、たった数十の兵で愛発関(越前の入り口)を突破しようとしたのでした。しかし待ち構えていた追討軍に阻まれ、それも適わなかったのです。撤退の途中高嶋郡で泊った民家で、夜半、疲れて眠ろうとしていた押勝の宿舎に、舎人の一人が飛び込んで参りました。
「た、大変です。天狗(流れ星・秦氏の星)が兵達の泊っていた民家に落ち、全員命を落としたものと思われます。」
「な、何。天狗が。」
何億分の一の可能性しか無いことが起こったのは、道鏡禅師様の祈祷の所為の様で御座
いました。その真偽はともかくとして、押勝軍はその家族以外殆ど全滅してしまったのは事実なのです。押勝は進退極って琵琶湖を船で逃れようとしたのですが、これも道鏡禅師様の祈祷のお力か沈没してしまい、無謀にも愛発関を再び今度は徒歩で突破しようと試みたのでした。もちろん敵うはずもなく、弓で残り少ない兵を八、九人も射殺され、近江国高嶋郡三尾に引き返して、そこの古城に立て籠ってさらに激しく追討軍と戦ったのです。
しかしたまらず押勝は隙を見て勝野の鬼江と呼ばれる入り江に向かい、三、四人の家族と共に小舟で湖を逃げ出したのでしたが、同月十八日、宮中で牡鹿嶋足と並ぶ豪の者で道鏡禅師配下の石村石盾(いわむらいわたて)と云う武者が、真備様の指示で援軍の船で追走し捕え、押勝の小舟に乗り込んできたのでした。短甲を着込んだ石盾は隻眼の為布で片目を隠し、子供なら泣きだしそうな程の異相でありました。
「無礼者、私を誰と心得る。」
と、鉄札(てつざね)の挂甲(身分の高いものの鎧)を身に付けた、老齢でも腕に覚えのある押勝が身構えながら叫ぶと、石盾は薄笑いを浮かべながら、
「大師様、お覚悟召されよ。」
と言うが早いか、刀で防ぐ間も無く、共に乗っていた家族の目の前で一刀の元に押勝の首を撥ねたので御座います。
「きやー。」
押勝の首が湖の浅瀬に落ちると、胴体が倒れるよりも早く、それを目の当たりにした押勝の家族の中から絹を引き裂く様な悲鳴が聞こえたのでした。その傍らの舟には、例によって白い布で顔を隠した五人の女と妻である不破内親王に囲まれて震えている氷上塩焼がいらっしゃいました。石盾は、そちらの方に振り返ると、
「塩焼王様(氷上塩焼)とお見受け致す。」
と冷たく言い放つと、太刀を持って近寄って庇う女達を引き剥がし、気は強いが意気地の無い氷上塩焼の首根っ子を掴んで猫の様に引っ張り出したのです。
「お、お助け。」
と言って逃げようとするかの方を、背中からばっさり切り伏せたのでした。
その横で震えている押勝の家族の中には、宮中一の美貌の誉れ高い、次女の東子(あづまこ)様がおりました。押勝の守り仏とも云うべき鑑真和上様がまだご存命の頃、この美貌の娘の相を見てもらったことが御座います。和上様は一言、
「この娘は、千人の男(おのこ)と遭うであろう。」
と仰るだけだったのですが、この時の予言が、今実現されようとしていたのです。
まず、押勝の首を取った石村石盾を先頭にして、東子様が、
「薩雄お兄様、助けて。」
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊