一縷の望(秦氏遣唐使物語)
五月、雷の鳴る嵐の中、突如として太上天皇陛下が宮城を抜け出し、光明皇太后縁の法華滅罪寺へ行って、それに続いて皇太后様の長年の采女(女官)で、輔治能(ふじの)清麻呂様の姉の広虫様も出家し、法均様と名乗ったそうに御座います。光明皇太后様の死によって、かの方から操られるだけの生活から解き放たれ、道鏡禅師様と云う心の支えも得て、真に一人の大人の女として自立されたのでした。それは次の様な宣言へと結びついていかれるのです。つまり六月三日、国家の大事と賞罰は自ら行う事を宣言し、陛下(淳仁天皇)の権限を制限されたのでした。これはお気持ちが恵美押勝から道鏡禅師様に移られたことと、陛下が上皇陛下と道鏡禅師様の仲を換言(上の身分の者に注意すること)したことを怒り、対立関係となっていたからともと思われます。
そして間の悪いことに翌年、恵美押勝の守り仏とも云うべき鑑真和上様が、唐津招第にて入寂(死去)なさってしまったのでした。その遺体は火葬にされたのですが、その時、辺り一帯に芳香が漂ったと伝えられます。そして既に無縁仏なら故行基大僧正様が寺に葬っておられましたが、貴人としては初めて後に唐招提寺と云う寺になる唐律招提に墓が作られたのでした。これは実は、鑑真和上にも弥勒信仰があったからなのです。遠い未来に修行を終えて現世に如来として現れる弥勒を待つ為に、五十六億年の風雪に耐えうる石の墓がどうしても必要となるのでした。こうしてその波乱に満ちた人生は、後に大切な役割を担う淡海三船(おうみのみふね)と云う私の弟子が選んだ「唐大和上東征伝」に詳しく乗っているのです。
さらに翌年の天平宝宇八(西暦七六四)年正月二一日、私(吉備真備)が造東大寺長官を命じられ、ついに大宰府から家族や秦赤檮(いちい)と共に入京したのでした。これは、同時に押勝の東大寺における権限をも取り上げてしまおうと云うものなのです。私はこの勅命が下された頃、既に奈良の外れに在る三輪の自宅に戻っていて、お呼びが掛かれば何時でも出られる様に待ち構えておりました。尚、この時既に、長安おいて安禄山の長男安慶宗の元に身を寄せていた真備様の唐における妻阿史徳様が、安慶宗様共々処刑されたことは随分前に知らされておりましたので、その忘れ形見の四人の息子達も含めて、既に悲しみに涙も枯れ果てておったのです。故に私は、
「唐で孔明様に習った兵法を、ようやく活かせる時が参ったか。」
と呟いて、大宰府にいる時蓄えた顎鬚を片手でなでながら、勅命の知らせを受けて奮い立っていたのでした。そして秦赤檮を呼び、お気に入りの破敵剣、護身剣の二刀を持って来させ、両腰にそれらを佩いたのです。
そこで九月二日、一向に集まらぬ健児の兵に豪を煮やした押勝は、大和・摂津・河内・和泉・山背・伊勢・美濃・越前・近江・丹波・播磨の軍兵を総括する役職を新設し、自らがその職に就いたのでした。これらの国から二十ずつの兵を都に招集することが出来るのですが、この人数も許可無く水増しし、兵力を蓄えようとしたのです。
その年の九月十一日、次の様に追いつめられた恵美押勝は兵もまだ満足に集まらぬまま、ついに謀反を起こしたので御座います。その策と云うのは、道鏡禅師様の仲間の陰陽頭(おんみょうのかみ)の大津大浦様の謀反の予言と藤原薩雄様からの知らせにより、押勝の謀反の動きを事前に知った上皇陛下は、今までとは違って平城京の大極殿でこう命じられたのでした。
「今すぐ中宮院の駅令(関所を通る許可に必要なもの)と内印(天皇の玉璽)と外印(太政官の印)を押さえるのじゃ。」
この上皇陛下の策は勿論以降の策も皆、都に戻された私(吉備真備)の考えなのです。
一方恵美押勝は、上皇側に駅鈴と内印と外印を押さえられた、とそれを守っていた鎮国衛(中衛府のこの時の名称)の兵に報告を受け、後で薩雄様に聞いたところによりますと、薩雄様の兄の訓儒麻呂(くすまろ)にこう命じたのでした。
「訓儒麻呂、駅令と内印と外印の守りの役を奪い返すのだ。」
訓儒麻呂がその座を奪い返さんとしたその時、上皇陛下が派遣したお気に入りの豪の者二人、坂上苅田麻呂様(田村麻呂の父)と丸子嶋足改め牡鹿嶋足(おがのしまたり)が訓儒麻呂を射殺したので御座います。恵美押勝はすぐ応援に最も信頼する兵(つわもの)の矢田部老(やたべのおゆ)を派遣したのですが、これもまた苅田麻呂と嶋足に討たれてしまったのでした。上皇陛下は勅をすぐさまお出しになり、こう公言されたのです。
「恵美押勝とその子や孫が反逆した。そこで地位と財産を没収することとする。さらに鈴鹿・不破・愛発(あらち)の三関を厳重に守らせよ。朕はこの戦いに必勝を期す為に仏の加護を得る様に、戦いに勝利すれば東大寺の真西に西大寺を建立することを誓おうぞ。」
まことに勇ましい勅ですが、西大寺云々は聖徳太子様の故事を真似たもので、そこに道鏡禅師様の影が見え隠れ致します。
その夜、恵美押勝は巨大な近江国府に逃走したのですが、この時密かに部下数名に命じ、
「お前達はこれから近江の国府へ行き、朝廷の使者が勢多(瀬田)の唐橋を焼く様に命じに来るかも知れないが、その使者を斬り捨て、橋を死守するのだ、と伝えよ。なに、近江はわしの本拠地でもあるから、国府の者達は二つ返事で承知してくれよう。」
むろん、官軍はこれを追討しました。追討軍の指揮官に中衛大将として私(吉備真備)、討賊将軍に式家の末弟七男の藤原蔵下麻呂(くらげまろ)様が任命され、その下には謹慎していた式家の次男宿奈麻呂様も私が呼び出し、獅子奮迅の活躍を見せるのでした。九月十四日、失脚していた南家の藤原豊成様を右大臣に任じ、南家を分裂させようとしたのです。
また私は国栖赤檮の推薦と紹介で、赤檮の武術の弟子でもある秦隼麻呂を呼び、こう命を下したのです。
「良いか、隼麻呂。これはお主の足の速さを見込んで頼むのだから、必ず成し遂げてくれよ。今すぐここを立ち、近江国の国府へ仲麻呂とは別の田原道を使って行き、そこにいる筈の造池使(ぞうちし)(琵琶湖を管理する役職)淡海三船(おうみのみふね) (「唐大和上東征伝」の撰者)と云う者を訪ねるのだ。良いか、その者に直接会うのじゃぞ。近江は恵美押勝の本拠地で、国府の者の殆どは奴の信奉者じゃ。じゃが、淡船だけは大丈夫じゃ。安心してこう告げよ。国府内の恵美押勝に味方する者を倒し、一刻も早く勢多(瀬田)の唐橋を焼き落とせとな。恐らくこの橋が勝負の分かれ目となることは、押勝の奴めも気付いておろう。これは時間との勝負じゃ。もし奴の使者の方が早ければ、お前は死ぬこととなる。応援を付けたくとも、お前以外の者では今からでは間に合うまい。一人で行くこととなるのじゃ。良いか、心得たか。」
「承知。」
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊