一縷の望(秦氏遣唐使物語)
これを好機と考えた方がいらっしゃいました。式家の統領藤原宿奈麻呂(四四歳、後の良継)様です。宿奈麻呂様は、先の橘奈呂麻呂の乱の折、雄田麻呂(後の百川)様の判断も有って、企てに加わらないでいたことが謀反の失敗の原因と思って後悔し、ずっと機会を伺っていたのです。そこで自宅に佐伯今毛人(いまえみし)(四一歳)様、石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)(三一歳)様、大伴家持様(四二歳)等各氏族の大物を集め、押勝暗殺の為の謀議を行なったのでした。
「私は、先の橘奈良麻呂の乱に加わらなかったことを後悔しているのです。しかし、光明皇太后様の亡くなられた今こそ好機。各氏族から腕の立つ者を出し合い、憎き恵美押勝めを討ち取るのです。」
この集いに宿奈麻呂様に付き添って参加していた弓削男広(ゆげのおひろ)様が事の重大さに驚き、弟の雄田麻呂様にこのことを相談されたのでした。
「やはり兄上はこの様なことを考えていらっしゃったか。いくら年下の恵美押勝よりも位階が下で腹が立つと言っても、こちらまでも謀反に連座されて処罰されては適わぬ。今の兄上では押勝に太刀打ちできまい。しかし今なら間に合う。兄上の頭を冷やす意味でも、
悪いが男広、悪者になってこのことを護衛をしている藤原薩(さつ)雄(お)に密告してくれ。彼ならばやんわりと事を治めてくれるだろう。何しろこんな時の為に、奴が流罪になった時援助して、手名付けておったのだからな。」
そこで事は発覚してしまったのですが、捕縛された宿奈麻呂様の言うことには、
「佐伯今毛人様、石上宅嗣様、大伴家持様は私が話を持ち掛けただけで、何も承諾して御座らん。罪は私一人にある。彼らには何の罪も無い。」
と御三方を庇い、潔く罪を一人で被られたのです。その態度は、亡き父親の宇合様を彷彿とされる御立派なものでした。ただ弟の雄田麻呂様の予想通り罪は比較的軽く、姓と位を剥奪されただけに終わったのです。
翌年八月、迎入唐大使使(遣唐使)が何一つ使命を果たさず帰国して、入京致しました。その後、二回の遣唐使を送ったのですがいずれも失敗し、遣唐使を送れるのはこれ以降十四年後になるので御座います。
同年十月十三日、陛下が近江保良宮(ほらのみや)(恵美押勝は当時近江国守で、近江と藤原氏は代々
縁が深い)に行幸され、大師(恵美押勝)が褒美を貰った祝いでその場所で大宴会が開かれ、平城京特に皇后宮の補修を口実に再びそのままそこにしばらく遷都することとなってしまったのでした。その一方、この頃から太上天皇陛下の具合が悪くなりがちになり、内道場の看病禅師であった道鏡禅師様がお側に召されたので御座います。
寝所に道鏡禅師様が着くと、上皇(太上天皇)陛下は床に臥せっておいでになりました。
「上皇陛下初めてお目に掛かります、看病禅師の道鏡と申します。お加減はいかがに御座いましょう。」
「おぉ、せっかく来てくれて済まなんだが、どこがどうと云うことはないのじゃ。ただどことのう気鬱の病に罹っている様じゃ。それに寒さ・暑さの変わり目なせいか、肩も腰も凝って難儀をしておる。頭も痛いこともある。足が冷えて、夜も良く眠れぬのじゃ。どうじゃ、お主はこの病、何と見る?」
「失礼致しまする。」
そう言って道鏡禅師様がお側近くに来て、その顔を間近にご覧になると、
「お主(ぬし)誰かに似ておるの。」
と上皇陛下が仰ると、顔色や脈を取りながら、道鏡禅師様はこう答えのです。
「玄ぼう法師様に御座いましょう。共に修行をしておりました頃は、年齢(とし)がかなり違うので間違えられることはありませんでしたが、かの僧と拙僧を二人共ご存知の方には、必ずと言って宜しい程そう言われまして御座います。」
「そうか玄ぼうか。朕の師であったこともある。何か訳の分らぬ内に左遷され、無残な最期を遂げたとか言う。ずっと気になっておったのだが。」
この時上皇陛下の脳裏には、母光明皇太后の想われ人でもあったと云う玄ぼう法師様の面影が過(よぎ)ったのかも知れません。男らしい端正な容姿をしていらした玄ぼう法師様、意志が強く理知的な凛とした美しさの持ち主であったお母上、二人に比べ容姿においては比較的平凡のみならず、才気も活発とは言い難かった上皇陛下は、二人を前にすると無意識の内に劣等感に打ちひしがれていたのでした。そして母皇太后と、図らずも恵美押勝の愛を共有することとなってしまい、その母が亡くなり、押勝からの愛を独占出来ると思っていたのも束の間、かの方と公務以外で言葉さえ交わさぬ様になってしまった我が身の情けなさ、寂しさを思うにつれ、やはり押勝が愛していたのは母なのだ、自分は利用出来ることだけは利用して後は弄ばれただけなのだと思い知らされていたのです。そんなことを考えるにつれ、年甲斐も無く誰かに自分だけを愛されてみたいと今も思わずにはいられない陛下なのでした。そんな取り留めも無い想いに陛下が駆られている間も、道鏡禅師様は作業を続け、そしこう言上したのです。
「今日の所は用意したこの薬を湯と共に飲んで頂き、針を何本か打ちましょう。その積りで準備もして来ました。」
「だから何の病かと聞いておる。」
「失礼しました。恐れながら申し上げます。お年齢(とし)を召されたご婦人が必ず罹る病かと思われます。」
「そうか、それでは完治は無理か。」
「はい、完治までは無理で御座いますが、服薬と針、灸・沐浴・指圧、按摩等用いまして、完治に近い状況までは持っていけまする。ただし、これはやり続けねばなりませぬが。」
「そうか、良しなに頼む。」
そう言って、道鏡禅師様による治療が始まったのです。様々な治療法が施されましたが、按摩治療が上皇陛下は殊の外気に入られ、毎回の様に道鏡禅師様にその施術を頼むのでした。詳しくは話せませんが、道鏡禅師様も上皇陛下も既に老齢にさしかかる御年齢であるにも関わらず、この施術を続ける内に男(おのこ)と女子(おなご)の関係に成られてしまったので御座います。考えてみれば、あの会合の時見せた彼の不気味な自信は、このことを意味していたのでした。とにかくこれで、上皇陛下は道鏡禅師様の言い成りとなり、采女の広虫様の上皇陛下への示唆もあり、恵美押勝への関心は急速に衰えていったので御座います。
そして一方天平宝宇六(西暦七六二)年二月二日、恵美押勝に貴族では最高位の正一位が贈られたのでした。また二月十二日恵美押勝は、以前の天平六(西暦七三四)年制定され、既に廃止同然だった健児(こんでい)の制度を復活なされたのです。この制度は、伊勢・近江・美濃・越前の郡司の子弟及び人民の中から、弓矢の訓練の出来ている者を選んで、諸国から選ばれる兵士としたもので御座います。これは藤原薩雄様の提案でなされたものなのですが、恵美押勝本人は自身の守りとすべく集めた兵の積りでも、実はこれは新羅の花郎(ふぁらん)制度を真似たもので、条件に適って集まってくる者の多くは秦部の者が大部分であると云う樞(からくり)で御座いました。またこの年、恵美押勝の三人の息子、真先(まさき)、訓儒麻呂(くすまろ)、朝狩(あさかり)を参議に付け、光明皇太后様亡き後、自らの基盤を固め直そうと必死な様が伺えるのでした。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊