一縷の望(秦氏遣唐使物語)
この事は大切な意味を持っています。それは朝鮮半島の統一戦争の折、百済と新羅は敵同士でした。やがて半島は新羅によって統一され、百済人の多くは王族を始め多くの者が日本へと渡来したのです。そしてそれらの日本への百済系渡来民が団結して、日本と連合して新羅・唐と戦ったのが有名な白村江(はくそんこう)の戦でした。結局その戦いは百済・日本の敗北に終わり、百済系と新羅系の渡来民は、日本において鋭く対立することとなったのです。しかし半島統一を果たした新羅は、今度は挙国一致して外敵唐に立ち向かいました。ですから、その時点で既に百済の民と新羅の民の対立は、日本おける渡来民の間だけの話になっていたのです。そしてそれさえ何百年も前の話となってしまった今日、いよいよ二つの渡来民が半島からの移民として一つにまとまる時が来ていたのでした。百済系の山部王様を新羅系の秦氏が担ぎ上げることは、その象徴的な行動と云えたのです。そして、新羅系の修験者の力で百済王族の血筋を引く百済敬福様に手柄を立てさせることは、それを推進するのに極めて効果的と言えるのでした。後述する様に、新羅と日本が戦をしようとしている今こそ、百済系と新羅系、そして高句麗系の渡来民が力を合わせる絶好の時なのです。
良弁大僧都様がお辞義をすると、一同も礼を返したのでした。
「時に次の後継者について、泰澄大和尚様は何と仰っていたので御座いますか?」
隆尊法師様は、具合が宜しく無いのにこの会に出席し、まるで時間が無いかの様にまずお聞きになったのです。また寺の中はかなり寒いらしく、少し礼を失するのですが、火鉢を目の前に引き寄せて両手をかざしたままでの発言なのでした。
「隆尊様、本当にこんな所に来てお加減は大丈夫で御座いますか? どうぞ会の途中でも、具合が悪くなられましたら遠慮のう仰って下され。そんな訳で、本来なら拙僧よりも若い隆尊法師様を後継者にしたい所なのですが、そうもいかなくなってしまったのです。泰澄大和尚様の仰ることには、まだしかるべく後継者はお生まれになってはいないとのこと。ただ、後継者の誕生に拙僧の寿命が間に合わぬ場合、後継者は道鏡禅師としたいと思うが、いかが。」
太秦宅守様が、
「道鏡さんと言わはると、どないなお方で御座いまっしゃろか。」
と言われたので、道鏡禅師様本人は少し照れながら前に出てこう答えられたのでした。
「拙僧が道鏡で御座います。後継者のことはともかくとして、広虫様と共に後宮のことはお任せ下され。私の仕事振りを見てから、後継者云々は考えて頂きたいと存じます。」
梨花様が、亡き玄ぼう法師様を彷彿とさせる道鏡禅師様の容貌に見とれていると、
「ほんまに殊勝な心掛けでおます。本人からは言い辛いやろから、誰かどないな修行をしてきてはるのかご存知の方はいらっしゃりまへんか?」
と宅守様が再度お聞きになったので、それを受けて良弁大僧都様が仰ることには、こう云
うことで御座いました。
「道鏡禅師は物部守屋様に繋がる河内の弓削連(ゆげのむらじ)の出で、、元々亡き義淵法師様から法相宗を学んでいましたが、私から梵語(インドのサンスクリット語)を学んでそれを習得すると、葛城山(大和国)に籠り、物部の者から密教(雑密)の宿曜秘宝の経巻を得、それを独学で習得しておりまする。今は宮中の内道場で看病禅師として仕えておりますが、いずれ名を為す御仁でありましょう。術の強さはあの玄ぼう並じゃ。今道鏡禅師自身が言った通り、禅師が名を成してからこのことは改めて提案しよう。本日はその事で皆に集まってもらったのでは無い。」
「恵美押勝(秦氏の敵に回ったので、これより尊称略)のことで御座いますな。」
と、藤原種継様がすかさず仰りまして御座います。横では甥の菅継様が、従兄の言葉が分かったのか分からなかったのか、黙ってうんうんと頷いておりました。
「そうじゃ。直接関係のある者は少なかろうが、新羅が我ら秦氏の根拠地の一つであることには変わりは無い。その故郷を、恵美押勝は踏みにじろうとしておるのじゃ。これを我らが見過ごすことは出来ぬ。じゃが、具体的には何を為せば良いのか分らぬ。だから、皆の意見を聞かせて欲しいのじゃ。」
「その前に大僧都様、鑑真和上様御存命の内は事を起こさぬとのお約束、守って下さるのでしょうな。」
と口を挟まれたのは、恵美押勝の六男藤原薩雄様でした。私(吉備真備)の陰陽道における愛弟子でも御座います。
「分っておる。鑑真和上様は、恵美押勝の守護仏のようじゃからの。それが存命の内は手出し出来ぬわ。」
「実際は、吉備真備様が都に戻り次第と云うことで御座いますか?」
と藤原種継様が、まだ若いのにも関わらず少し意地の悪いことを仰いました。その横では、また菅継様が頷いております。
「待て待て。吉備真備様が戻って来た所で、今の恵美押勝においそれと太刀打ちできるものでは無い。一方鑑真様はだいぶ具合がお悪いと聞いておる。この二、三年で事を起こせる訳では無いのだから、薩雄の杞憂も晴れると云うものだ。」
と小黒麻呂様が助け船を出されました。
「そうそう、この薩雄には、恵美押勝の動きを我らに告げる大事なお役目があるのだから、そう疎かにするものでは無い。それにしても、どうすれば良いのか。」
と大僧都様が仰ると、道鏡禅師様が、
「押勝と恋仲だったとも言われる光明皇太后(かつての光明皇后、光明夫人(ぶにん)、安宿媛(あさかひめ))様が今御病気で、もう長くは無いと思われます。そうすれば、恵美押勝の後ろ盾は母子で恋人だったとも噂される太上天皇陛下(孝謙上皇、かつての阿倍内親王)ただお一人、この方を我らの真の味方に出来さえすれば、勝機もありましょう。」
と仰ると、すかさず広虫様が口を挟みました。
「男(おのこ)と女子(おなご)の仲の恵美押勝と太上皇陛下をどうやって引き離すと云うのですか?」
「それはそれ、拙僧に考えが御座いますが、成功するまで皆様には教え兼ねます。」
「ふーむ。側に仕える広虫さえ首を捻ることが可能なら、わし等に勝機もあろうものじゃが。まっ、とにかくやってみなされ。」
と大僧都様が仰ると、道鏡禅師様は居住まいを正して、
「畏まって御座います。」
と答えて、一つ頭を下げたので御座いました。この時の道鏡禅師様の言葉が、後々恐ろしい意味を持ってくるのです。また、この時この会合に参加された隆尊律師様は、この後まもなく入滅されるのでした。
天平宝宇四(西暦七六〇)年正月四日、恵美押勝は皇族以外で初めて太師(太政大臣)になられ、位人臣を極めたので御座います。また最近具合の悪かった光明皇太后様は六月七日、ついに崩御されてしまったのでした。道鏡禅師様の予言の内、一つはこれで実現したこととなるので御座います。恵美押勝としては、これで大きな後ろ盾の一つを失ったこととなるのでした。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊