一縷の望(秦氏遣唐使物語)
天地(あめつち)を照らす日月の極(きわみ)無くあるべきものを何をか思はぬ(大炊(おおい)王作、万葉集所収)
右の歌は、皇太子となった大炊王様の作で、「天地に照り渡る太陽や月の様に皇位は果てしないものである筈のなのに、何を思い煩おう。」と云う意味で御座います。歌の内容を見ると、これから我が身に振りかかる悲劇を予想だにしていない様です。
さて奈良麻呂様の乱を治め、自らの天下となった藤原仲麻呂改め恵美押勝様は、陰謀は勿論の事、官印の代用となる「恵美家印」なるものの使用を日本史上初めて許可され、様々な自分に都合の良い公文書を自分に都合良く捺印したのでした。例えば貨幣の鋳造権を得て、世の乱れに構わず大量の金を作り出したりしたのです。ただそう云った暴政ばかりでも無く、税制改革や問民労苦(地方行政の監察)や平準署(穀物物価の悪化を調整する蔵を管理する所)を作る等の徳治政策や官名を唐風に改称させると云う唐風政策を推し進めるなど良い政治を行っていたのですが、我ら秦氏の我慢できぬことは、新羅征伐をお決めになったことなのです。秦氏の「はた」の音は元々新羅語であり、新羅は秦氏の本拠地でもあった所ですから、思い入れもある所なのでした。新羅が日本の遣新羅使に無礼を働いたとかで征伐を決められたそうですが、一つには安史の乱で混乱する唐が、新羅を日本が征伐しても何も出来ないと判断したからでも御座いました。その上最近新羅から渡来して都にいる者達を、軍事機密が漏れる恐れがあると因縁を付け、東国へ強制移住させることまで始めたのです。もちろん、不服の者は我らで匿ってはいます。しかしそれまで押勝様のことを、鑑真和上様のこと等もあり、秦氏の敵か味方か判じ兼ねる所があったのですが、これではっきりと排除すべき敵と成られた様な気が致します。
私事では御座いますが、この頃拙僧(泰澄・かつての法澄)は故郷の越智山の大谷に籠り、残り少ない余生を過ごすこととしたので御座います。そこで秦氏の束ねの役割は、近頃大僧都となられたばかりの良(ろう)弁(べん)大僧都様と吉備真備(きびのまきび)(かつての下道真備(しもつみちまきび))様にお譲りすることとしたのでした。良弁大僧都様とは奈良で、吉備真備様には大宰府まで行って直接お願いして承諾を頂きました。ただ後継者探しに関しては、何とか占いで探し続けようとは思っていたので御座います。よってこの物語も、これよりは吉備真備様に引き継いで貰おうと思っておりまする。またこの引き継ぎの時、朝元様からの遺言でくれぐれも言われていたこと、すなわち藤原にすり寄り中央思考を目指す者達と、蝦夷や隼人、渡来系の者や藤原以外の貴族の者などが、同じ秦同士争っている現状を、一刻も早くただして欲しい、と伝えたのでした。朝廷に仕え、中央志向の拙僧が、藤原以外の貴族の代表に見られている吉備真備様に引き継ぐのですから、まことに微妙なもので御座いましたでしょう。
改めてご挨拶申し上げます。私は吉備真備と申す者で御座います。そう長い間では無い
と思われますが、この話の語りを受け継がせて頂こうと思います。なお、泰澄様から言われている秦氏同士の争いに関しましては、両者の和合を願う私にとってまことに頭の痛い問題と思えぬので御座います。微力では御座いますが、その為に誠心誠意尽くしていく所存で御座います。また良弁大僧都様もまた拙僧と同じ志とは存じますが、かの僧は後継者となるに辺り、暮れも押し迫ったとある日、泰澄大和尚様とは違って一族の主だった者を集め、東大寺の奥深く密談を交わしたので御座います。そこに出席した者は、秦氏から亡き太秦嶋麻呂様の忘れ形見の宅守(やかもり)様、これも亡き秦朝元様の忘れ形見の真成様、朝元様の妻であった梨花様、年齢では良弁大僧都様と同じ位の秦大麻呂、遠縁でも実力者の秦足長、朝元様の従者であった亡き調子麻呂の子、隼麻呂、秦真成様の姉の子、式家の藤原種継様、その従兄の菅継様、太秦宅守様の姉の婿、北家藤原小黒麻呂様、南家からも恵美押勝の六男藤原薩男様、僧侶では道鏡禅師様、隆尊律師様、長年孝謙天皇陛下にお仕えしている広虫様、その弟の磐梨別清麻呂改め輔治能(ふじの)真人清麻呂様がおいでになった様は、実に壮観なものとなりまして御座います。まずは、新たに束ねとなられた良弁大僧都様がご挨拶申し上げました。
「この度、泰澄大和尚様より皆の束ねを仰せつかった良弁で御座います。本来は吉備真備様にお願い致したい所なのですが、現在大宰府にいらっしゃいまして何かと不便ですので、真備様がお戻りになるまで、審祥法師様も既に亡く、唐僧道?(どうせん)様も明日を知れぬ命と云うことで私が代理をお務め致すこととなりました。まずは真備様が一刻も早く都に戻れるよう願う次第で御座いまする。取りあえずは、皆様方よろしくお願い致します。」
良弁大僧都様とはそもそも不思議なお方に御座います。伝説によれば、相模国の秦氏系の漆部時忠と云う長者の子でありました。御生誕の時、父親が夢で、弥勒菩薩様が法華経を与えられるのを見たそうです。生後七十日目、母親が目を離した隙に大きな鷲にさらわれてしまい、奈良の金鐘寺(後の東大寺の二月堂)前の高い杉の木の枝で食べられる所を、一匹の猿が赤子を奪い取り、見上げていた亡き義淵僧正様に渡し、そして僧正に僧として育てられたそうなのでした。後に漆部の父母は三十年間、全国を探し歩いて息子を東大寺に見付け、良弁大僧都様と再会したと伝えられます。
東大寺の開山として名を知られ、金鐘行者とも金鷲優婆塞(こんじゅううばそく)とも称します。また東大寺の大仏を造営するに当たっては大量の金が必要で、その金は唐から買う予定だったのですが、それには莫大な予算が必要なのでした。そこで良弁大僧都様が金が賜りますようにと熱心に祈祷した所、陸奥で金鉱が発見されることとなるのです。実はこれには、深い樞(からくり)があるのでした。つまり、良弁大僧都様が行者とも呼ばれますのは、修験道と良く似た「華厳宗」を審祥法師様より受け継がれ、若い時は密教的な山林修行に明けくれていたからなのです。泰澄大和尚様を修験道に導いたのも、この僧侶の力が大なのでした。今や修験道は審祥法師様、秦澄大和尚様、良弁大僧都様等の御努力により、越前の白山は元より武蔵国の高尾山、相模国の大山、箱根山、白山の隣の石銅山(石川県と富山県の境)、大和国の葛城山、大峯山、紀伊国の熊野三山、近江の比良山(良弁開山)、山背の愛宕山、鞍馬山、讃岐の尾野瀬山、豊後(大分県)国東半島の両子山(ふたごやま)、薩摩の韓国岳へと広がっていたのです(因みに、これらの山々の多くに現在天狗伝説が伝わっている)。そこでそれらの山の修験者達によって、普段から様々な山で取れる鉱産物の情報を持ち寄っていて、その中に陸奥の小田郡の金鉱の情報も有ったのでした。そこでその情報を同地の百済敬福(くだらのきょうぶく)様に伝えておいた上で、もっともらしく祈祷をしてから敬福様から金鉱発見の報告をさせたのでした。百済系の敬福様に手柄を立てさせたのは、当時から秦氏が押していた山部王様の母方が百済系で、百済氏族の宮廷での立場を上げる意味合いがあったのです。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊