一縷の望(秦氏遣唐使物語)
役行者様とは本名役小角(おづぬ)様と仰り、鴨氏の役氏で、新羅側に肩入れされておりました。それで法澄様の前に彼らに見込まれましたが、先に述べた弟子の百済者韓国連広足に密告されて無念の最期を遂げられた方なのです。役氏は「役(えの)民(たみ)」を率いる一族ですが、この後没落してしまったのでした。今話をされた行基法師様は一族である事と心情的に、貧困にあえぐ彼らを救済する為の活動をされている方なのです。しかし詳しい話はは又後で致しとう存じます。
そして一番年齢の若い隆尊法師様が、自分の順番が待ち切れぬ様に仰るには、
「それにしたってお師匠様、わざわざこれだけの人を集める必要が本当にあったので御座
いますか? 九頭竜様や観音様の幻なら、お師匠一人で十分作れたでしょう。」
と、怖いもの知らずの質問をなさったのです。義淵住職様はその問に、
「お前も見ての通り、三人をつける異様な気の持ち主が複数いおった。わしが直接現場に行けるなら一人でも良かったが、あの様な実力も人数も知れぬ者達を追っ払うには、九頭竜様の首一つ一つの眼が違う方向を見ることが出来る必要があったのじゃ。分ったかな。」
と笑いながらお答えになられたそうに御座います。その答に、
「はい、お師匠様。」
と元気に隆尊法師様がお答えになると、続けて義淵住職様は、
「それに女の観音の役は、是が非でもここにいる宮(みや)にやって欲しかったのじゃ。どうもこればかりは拙僧達では役不足での。」
と仰られると、宮子皇太夫人様は頬をほんのり赤く染めて頷かれると、
「私でも役不足ではありませんでしたでしょうか?」
と仰られましたので、義淵住職様は、
「なんの、それはそれはお美しい伊弉冉様、十一面観音様で御座いましたよ。」
とお答えになられましたので、皇太夫人様は、
「嫌ですよお師様、私ももう若くはありません。世間に流している様に心の病ではありませんが(宮子皇太夫人は、一人息子の首(おびと)皇子をお産みになった後、心の病になったと称して、皇后宮に引き籠って一歩も外に出ないことになっていた)。」
とお答えになられた皇太夫人様の顔は、いつもと違って白粉も付けず、色黒の顔に海人独特の美しい文身(刺青)が施されておりました。皇太夫人様が実のお子様の首皇子ともお会いにならないのは、この文身の所為なのです。遠目なら白粉で誤魔化し様もありますが、親子の対面をしては分ってしまうのでした。皇太夫人様が文身をしているなど許される訳が無いので御座います。皇太夫人様は青い汗衫(かざみ)姿で、いつも臥せっていることになっているのでこの格好なのでは無く、水を司る竜に関する時はこの青い装束を身に付けなければならないのでした。話が切れるのを待ち兼ねた様に、下から二番目に若い道鏡法師様が、
「それにしても、広足の奴め、役行者様ばかりか、我らがやっとの思いで見つけた越の大様のお命まで縮めようとするとは、しつこい奴ですね。」
と仰られました。すると控え目な延豊法師様が、
「そのことですが、どうして広足は法澄様のことにまで目を付けたのでしょう。法澄様のことは我らの秘中の秘のはず。」
と口をお挟みになると、傍らにいた景静法師様が、
「それよ。韓国連広足、恐ろしき男よ。奴の力のお蔭か情報網のお蔭かは知らぬが、いず
れにしろ恐るべき千里眼と言うより他はあるまい。」
とお答えになられると、延豊法師様はなおも、
「いや、そうでしょうか。」
と口籠りなさると、行基法師様が説教口調でこう仰りました。
「法義、延豊、宮を送って皇后宮にもう帰らねばならぬぞ。」
法義法師様、延豊法師様は、
「はっ。」
と短く返事をなさりました。
皇太夫人様と法義法師様、延豊法師様は皆より早くお帰りになり、元興寺の裏から皇后宮へ松明を持って先導して帰られる道すがら、
「どうも気になる。もしあの中に広足と通じている者がいたとしたら、我らの計画は筒抜けだぞ。しかし分らぬ。あれ程信頼しあっている仲間を裏切る様な者が、果たしてあの中
に居るのだろうか?」
延豊法師様は、そう呟かれたそうに御座います。後のち、この時のことを何度も思い出しては後悔なさることとなろうとは、神いや仏ならぬ身の延豊法師様には知る由も無かったのでした。その時宮子皇太夫人様が立ち止り、誰に言うでも無く、こう呟かれたのです。
「唐へ派遣した四人は、今頃どうしておるかのう。昨年の出立の時は、せっかく大極殿まで来ながら、私が皇后宮に籠っていたので会うことも適わなかったが、今頃は海の上なのかのう。無事唐に辿り着けば良いが…。」
皇太夫人様は、内裏に入る前にそう言って朱雀大路の彼方を遠く見やり、唐へ遣唐使として派遣させた同志達四人、下道真備(しもつみちまきび)様、玄ぼう法師様、阿倍仲麻呂様、審祥法師様のことを想ったのでした。また春日山の方に振り返ると、道中時々見掛けた鹿の両目が、また不気味に光っていたのです。
ところで法澄様一行お三方は、そのまま千日の行に入られましたが、千日前に再びお告げがあり、養老三(西暦七一九)年七月三日、白山神社に白山権現を習合なされたのでした。季節はだいぶ暑くなって参りましたので、山で手に入れた八つ手の葉を左手に持ってぱたぱたを扇ぎながら山道を下って、駆け出(山伏が修行を終えること)されたのです。
第三章 帰朝
暁(あかとき)の夢(いめ)に見えつつ梶島の磯越す波のしきてし思ほゆ (藤原宇合作 万葉集所収)
また大声で歌を詠む宇合(うまかい)様の声が聞こえます。その後の遣唐使の船路も驚く程順調で、例によって暇を持て余した宇合様が朝服の乱れも整え終わり、もう目の前に迫った難波の港を前にしてお詠みになった歌で御座いました。前回同様歌の意味を聞きますると、
「『しきてし』とは『しきりに』と言う意味じゃ。また女のことを想っての歌さ。」
とだけお答えになっている内に、港に着いてしまったのです。そこで私は、せっかく剃った髪もだいぶ生えてきたので、少し時間をお借りして髪を剃っていました。妻の梨花も、いらぬ注目を浴びぬ為に白髪を黒く染め直して、後ろに縛り直しております。それからここから真っ直ぐに郷である葛野(かどの)まで行きたい所なのですが、公式の役目の船ですからそう云う訳にも行かず、取りあえず陸路奈良の平城京を目指したのでした。
遣唐使の船は原則として四艦有り、船が違った仲間の道慈法師様やその従者を務めていた秦大麻呂とも合流し、梨花と四人で地元の秦氏の用意してくれた馬に乗っての旅を始めたのです。大麻呂は私と同じ位の年齢で、名にそぐわず小柄な男でしたが、大力で数多い荷を軽々と扱い、馬の扱いも見事でした。その一方宇合様は、慌ただしい出立前に私に近付いて来て、わざわざこう話されたのです。
「都では我らをさぞ歓迎するだろう。何しろ遷都してから初めての遣唐使がこうして無事に帰国したのだからな。それと都に着いたら回りを良く見てみるが良い。どの建物も皆建てられたばかりで輝いておるぞ。」
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊