一縷の望(秦氏遣唐使物語)
と低く呟き、口からは先が二股に分かれた舌を出しながら、そのまま音もなく走り去ったので御座います。その行動が予想もつかず、出遅れた御二人の内、臥行者様が法澄様の方を振り返り、
「追いますか?」
とお聞きなさると、法澄様は、
「いや、放っておけ。」
とお答えになりました。すると今度は浄定行者様が、
「打ち据えた四人は舌を噛み切っております。何者でしょう?」
とお聞きになりました。臥行者様は、
「これ程の身のこなし、恐らく右大臣(藤原不比等)の手の者、呪禁(じゅごん)寮の百済者であろう。」
と遺体を確かめもせずに仰りました。浄定行者様は簡単に一つの遺体を確かめなさり、
「身分を明かす物は何も持ってませんが、間違いありません。そうすると、広(ひろ)足(たり)(韓(から)国(くにの)連(むらじ)広足のこと)の手の者ですね。」
と返されました。臥行者様が、
「一人逃がした、急がねばならぬな。おや、どこも焼けておりませぬ。あれだけ炎に包ま
れたのに。そう言えば、周囲のどこも焼け残りが御座らん。」
とそう呟く様に仰られますと、突然法澄様が、
「二人とも見よ。」
と声を掛けられたので御座います。二人が湖の方を見ると、先程まで火を吹いていた九頭竜様が青い光に包まれ始め、法澄様が、
「この龍の御姿は世を忍ぶ仮の姿である。どうか本当のお姿を現せ給え。」
と大きな声で御祈りなさると、沈みいく夕陽の光の中に九頭竜様は序々に消え去り、変わって青衣(しょうえ)の女神が顕現なされたそうで御座います。光の眩しさに慣れ、良く見ると、それは紛れもなく十一面観音様(仏教における九頭竜の姿)の御姿でありました。またついで左に見える別山からも、右に見える大汝峰からも後光が差していたので、法澄様はこうお叫びになったそうに御座います。
「おぉ、これぞ正(まさ)しく何かを私に知らせようという験(しるし)に相違ない。左は臥、右は浄定、見てきておくれ。」
「ははぁ。」
と同時に言って、二人の行者は持参した托鉢用の鉢を取り出し、それをそれぞれの山に向かって投げたのでした。すると鉢は目の前の中空に留まってしまったのです。両行者様はその上にひらりと飛び乗ると、鉢はそのまま左右の峰へと飛んで行ったのでした。お二人が峰に近づきますと、左の峰から金の矢を握り、銀の弓を肩にかけた壮士の格好をした男神が顕現なされ、近付いた臥行者様が突然神懸かられ、その口から野太い武者の声で、
「我こそは、小白山別山大行事(聖観音)なり。」
とお名乗りになり、次に右の大汝峰より変わった服を着た老人が顕現なされ、臥行者様が神懸かってその口からしわがれた老人の声で、
「我こそは大己貴(おうなむち)(西刹の王、阿弥陀如来)なり。」
と名乗られたそうに御座います。
辺り一面は、ただ静けさに包まれたのでした。法澄様は思わず、
「この地に必ずやお三方をお祭り致し、我ら秦氏の心と神仏習合の拠り所と致します。」
と大声で御誓いになられたそうに御座います。やがて夕日が沈むと、三神の御姿も次第に
消え去っていったのでした。三神が消え去るのと同時に、二人の行者は大徳様の元にお戻りになったのです。見ると、それまで沸騰していた緑碧池が静まり返り、青い清水となっておりました。お三方は黙って着ていた物を脱ぎ捨てると、その池に合掌したまま入り、身を清められたのです。そして合掌したまま浄定行者様が下になり、法澄様がその上になり、さらに臥行者様が上になって、三人は一つになったのでした。すると、両行者に憑いた神の力が、法澄様へと流れ込み、三神は法澄様の中で一つになられたのです。こうして法澄様ご自身が、菩薩となられたのでした(この様な衆道は後に語る空海が伝えたと云う伝説があるが、ここではそれ以前に修験道において伝わっていたものと考える)。
ちょうど同じ日時に、奈良の平城京の内裏に程近くほぼ出来上がった元興(がんごう)寺の広い本堂の中に、九人もの男女が座り込んでおりました。当時の多くの寺院は元興寺のように都心にあり、基本的に国立である。現在の様な山にある寺は当時は山岳修行用の建物であることが多かったのだ(現代のように山に寺があるのは、寺が葬儀を行う施設になってからであり、当時は寺にその様な機能は無かった)。三人が真ん中に座り、それを後の六人が取り囲んでいるという様子です。元興寺は、その名の通り仏寺の元祖として建立されました。そもそも聖徳太子様と蘇我馬子様が創建した飛鳥の法興寺がその前身で、奈良に都が移って寺も移ったものを元興寺と呼び、飛鳥に残った寺を飛鳥寺と呼ぶこととしたのでした。
九人の目の前には、本来の本尊である弥勒菩薩様を横に置き、脇侍である十一面観音の像が鎮座していました。その三人は、真ん中に皇太子(首皇子(おびとのみこ))の母である宮子皇太夫人(こうたいぶにん)様(宗像(むなかた)氏)、その右側に元興寺の義淵住職(阿刀氏)様で、この中で一番の年長で背が低く顔中皺だらけでしたが、一味の長らしく眼光は鋭くていらっしゃいます。左側は義淵住職様に拾われてお育てになられた良弁法師(漆部氏)様で、義淵住職様と同じ位の背ではありますが、だいぶほっそりとしていらっしゃり、住職よりもいささか若く皺も無くつるんとした顔でありました。周りの六人も年齢の順に紹介しますれば、精悍な眼つきで、痩せて顔中無精髭だらけの行基法師(西文(かわちのあや)氏)様、お年齢(とし)はもう老年と言っても構わないと存じますが、顔色は若々しくまだ壮年と云った風で御座いました。そして行基様の三人の弟子、壮年の景静法師(弓削氏)様、少し若い法義法師(土師氏)様と延豊法師(秦氏)様がいらっしゃいます。さらにまだ青年でいらっしゃる道鏡法師(弓削氏)様、またさらに若い少年僧でいらっしゃり、やや病的に痩せている隆尊法師(秦氏の設定)様がいらっしゃいました。この場に集う老若男女は、「秦氏」と云うよりも、その考え方に同心する同志と云った所なので御座います。
三人が目を閉じて祈るのをじっと静かに見つめていた六人の者でしたが、やがて三人の祈りが終わり、義淵住職様の眼がかっと空けられたそうに御座います。
「どうやら終わった様じゃな。」
そう義淵住職様が仰られると、左側の良弁法師様が、
「お疲れに御座いました。」
と、労(ねぎら)いの言葉を掛けられたのでした。真ん中の宮子皇太夫人様も眼を開けられて、
「やっと終わったのですね。」
と安堵の声をお漏らしになられました。
「これで我ら秦氏の、如(し)いてはこの日本と神仏習合の心の支え、仏陀が出来申した。」
と、行基法師様のお弟子の延豊法師様がもらされました。
「いかにも長かった。役行者(えんのぎょうじゃ)様が亡くなられてから、一体何年の月日が経ったことか。」
と、そう師である行基法師様が仰ったのです。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊