一縷の望(秦氏遣唐使物語)
激しい雨の降りしきる中、二人は互いを睨みつけながらじりじりと横に動きます。周り
の兵達も息を呑んで、場の雰囲気に圧倒されたのでした。カチンカチンと軽く太刀同士の当たる音が二、三回したかと思うと、
「いやー。」
と云う奇声と共に嶋足が蕨手刀を振りかぶり、調子麻呂がそれに誘われて一歩踏み込み、自分の太刀を横に払ったので御座います。嶋足は片足で大地を蹴って跳びあがり、そのまま調子麻呂の脳天に刀を浴びせかけようとしたのでした。調子麻呂すばやく太刀を合わせたのですが、嶋足の刀は勢いよく調子麻呂の太刀に食い込み、調子麻呂の額には自らの太刀が相手の刀の勢いに押されて食い込んでしまったのでした。調子麻呂は額が割れ、うっ、と唸ってよろけた所を、嶋足が刀を横に払ったので御座います。調子麻呂はそれをよけ切れず、半分以上も胴体を斬られてその場に倒れたのでした。
嶋足は、倒れた調子麻呂を顧みることもなく、
「中に誰がまだいるし。踏み込むっす。」
と叫んだのでした。調子麻呂は最期の言葉も言えず、息絶えたので御座います。因みに、この時国栖赤檮は調子麻呂のことを思い起こさせる種継様の舘を出て、吉備真備に仕える為に大宰府へと向かっていたのでした。かつて朝元様が拙僧に話された秦氏同士の争いが、今ここに繰り返されてしまったのだと言えましょう。まことに残念なことで御座います。
こうして、舘の中に隠れていた小野東人様等は捕えられ、左衛士府の獄に繋がれてしまわれたのでした。翌日の七月三日、右大臣様(仲麻呂の兄藤原渡豊成)と中納言様(北家藤原永手)が尋問を行いましたが、東人様はあくまで無実を訴えたので御座います。陛下は藤原仲麻呂様立ち合いの元、塩焼王様、安宿王様、黄文王様、橘奈良麻呂様、大伴古麻呂様を呼び出され、
「謀反の企てがあるとの報告があったが、自分は信じていない。」
と、仰られたのでした。
塩焼王様を捕える為、父親の新田部親王様の舘として知られる所に、牡鹿連嶋足達は中衛府の兵と共に踏み込んだので御座います。踏み込んだ時、ちょうど塩焼王様は妻である不破内親王様と、そして顔に白い布を垂らした五人の女儒(女の召使)、名をそれぞれ子部宿禰小宅女(こべすくねこやけめ)、下村主白女(しものすぐりしろめ)、川辺朝臣東女(かわべのあそんあずまめ)、名草直高根女(なくさのあたいたかねめ)、春日朝臣家嗣女(かすがのあそんやかつぐめ)と申す者達に囲まれて戦いの必勝祈願をしている最中でした。実はこの女儒達は以前それぞれ別の地
方に追放されて、いつの間にか許しも得ずに戻っていた者達なのです。さすがの嶋足も、六人の女が泣き叫ぶ中、全員を捕縛するのは一苦労でしたでしょう。
その日右大臣様が尋問から外され、今度は中納言様(藤原永手)だけで尋問に当たり、捕えた者達を躊躇せずに杖で叩く等のひどい拷問にかけると、
「言う、言う、全部言う。」
と言って、東人様は謀反の計画を細かく自白なされたので御座います。七月四日、この供述に基づいて橘奈良麻呂様、大伴古麻呂様、安宿王様、黄文王様、多冶比犢養様、賀茂角足様らが逮捕されてしまったのでした。この時、豪勇の大伴古麻呂様が抗えば、何人死体が出たかは分からぬ程だったと思いますが、回りの説得も有り、犠牲者を一人も出さずに済んだのです。この時中納言様達が尋問を行うと、全員が覚悟を決めて謀反を認めたのでした。特に奈良麻呂様は、何故謀反に至ったかの質問に対し、
「内相(藤原仲麻呂)の政(まつりごと)は無道なことが多い。東大寺を造って、水銀(みずがね)や銅(あかがね)による毒で人民を苦しめたのを、皆が憂えていたからだ。」
と答えなさると、中納言様は、
「東大寺建立は、あなたの父(橘諸兄)が政治を行っていた時のことではないか。」
と言い返され、奈良麻呂様は一言も弁明出来なかったそうです。今は仲麻呂様が押さえている東大寺ですが、元々は橘親子(諸兄、奈良麻呂)もこれに深く関わっていたのでした。
この後、明らかに意図された拷問が続けられ、橘奈良麻呂様、黄文王様、道祖王様、大伴小麻呂様、小野東人様、多冶比犢養様、賀茂角足様は、杖で死ぬまで打たれて獄死したそうなのでした。これは彼らの行動が未然に防がれたことと、光明皇太后様が彼らに同情的であったことから、正規に処分すれば死罪を免れるかもしれないことを恐れたからなのです。仲麻呂様の兄である右大臣様も、尋問が消極的だったと云う理由で左遷され、その子の乙縄様も同様に大宰府に左遷されたので御座いました。安宿王様は佐渡島へ流罪、塩焼王様は臣籍降下され、結局罪は問われませんでした。姓名を氷上真人塩焼となられたので御座います。当時陸奥に行っていた佐伯全成様は、現地で尋問を受けて自供した後、首を括って自害なさったそうです。
これに対し、密告に関わった者達はいずれもそれなりに評価されたのでした。まず橘諸兄様の従者であった左味宮守は、従五位下に叙された上越前介となり、次に長屋親王の息子である山背王は、従三位に昇叙されて名を藤原弟貞と改めて南家に属すこととなり、最後に上道臣斐太都は従四位下に昇叙された上、朝臣の姓を賜ったので御座います。こうして藤原仲麻呂様を倒すはずの計画が、結果的にその権勢を高め、確実なものとしてしまったと云う訳なのでした。
ところで兵に加わる予定だった秦部の者達は、宅守様達に類が及ぶことも無く、現場の責任者達が流罪になっただけで、兵になる筈だった者達にはお構いなし、と云う温情有る裁定で御座いました。
翌天平宝字二(七五八)年、大炊王様が即位(淳仁天皇)し、陛下(孝謙)は太上天皇陛下となられ、藤原仲麻呂様は太保(右大臣)に任じられ、鑑真和上様の助言で決められた恵美押勝の名を与えられたので御座います。その意味は、「広く恵みを施す美徳、これより美なるはなし。暴を禁じ、勝に強く、矛を止め乱を鎮める。」と云うことです。なお鑑真和上様は、橘奈良麻呂の乱に連座した塩焼王様、道祖王様が住んでいた、父である新田部親王様の舘を頂き、そこを唐律招(とうりつしょう)提(だい)(後の唐招提寺)と云う私立の学問所になさったのでした。因みにこの年、既に開眼の式典を終えている大仏殿が、ようやく完成致します。ただ、それを祝う個別の式典も大々的には行われず、他の様々な重要な行事のついでに行われたに過ぎないと云うまことに寂しきもので御座いました。
鑑真和上様は、この塩焼王様の舘の改築が終わり次第、東大寺からこちらに移る手筈となりましたので、藤原仲麻呂様は和上様の所に次女の東子(あずまこ)や六男の薩雄様共々参上されたのです。目的は、年頃となったこの美貌の娘の相を見てもらい、どう云う所に嫁がせれば効果的か、助言をしてもらおうとされたのでした。この頃完全に失明してしまっていた和上様は、普照法師様の手を借りて東子様の顔を撫で擦っていたのですが、暫くして大きく息を吐き出したかと思うと、一言、
「この娘は、千人の男(おのこ)と遭うであろう。」
と慣れぬ日本の言葉で申されました。押勝様は何のことやら分らず、
「和上、意味が分りませぬ。どういう意味なのか教えて下され。」
と食い下がられたのですが、和上様は首を横に振りながら、
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊