一縷の望(秦氏遣唐使物語)
「有り難や。有り難や。これでこの仕事を私に託してくれた太安万侶様に、兜率天でお会いしても顔向けが出来る。」
この年の四月、黄金を納める為陸奥より上京した佐伯全成様に、奈良麻呂様から三度目の謀反のお誘いがあったのです。この時、同時に大伴古麻呂様も誘われたのですが、上皇崩御に伴い、先手を打つ積りだったのでしょう。しかし、両者共にこれをお断りになられたので御座いました。
よって、藤原仲麻呂様の方が先に動く形となりました。仲麻呂様も、上皇陛下と橘諸兄様が亡くなるのを好機と待っていたのです。それは次の様なことがあったのでした。橘諸兄様が亡くなったのと同じ年の三月二九日、仲麻呂邸の田村宮の陛下(孝謙天皇)から、「現在は服喪中であるにも関わらず、道祖王は淫らな行い(男色)に耽っている。諭しても改めないので、皇太子のままで良いものだろうか?」
とお言葉があり、大臣一同、
「あえて反対は致しません。」
と答え、道祖王様は皇太子を廃されてしまったのです。
四月四日、またも陛下が群臣に対して、
「どの王を太子にするべきか?」
とお聞きになられたので、右大臣様(南家藤原豊成)と中務卿の藤原永手様(北家)は塩焼王様を押し、左大弁様(大伴古麻呂)は亡き舎人親王の子池田王を選び、大納言様(南家藤原仲麻呂)は誰も推薦せず、
「ただ陛下の仰せのままに。」
とだけ答えたそうに御座います。
「塩焼王は広嗣の乱の時一度罪を得ているし、池田王は親不幸者である(意味不明)。それ以外の王も問題があるが、舎人親王の子大炊(おおい)王だけが、年若いが障りは何も無い。この王を太子に立てようと思う。皆の意見はどうであろうか?」
と陛下がさらに聞くと、諸大臣は皆、
「ただ勅命に従います。」
と申し上げたのです。大納言様は、もともと大炊王様を自宅に住まわせており、藤原刷雄改め薩雄様と中衛府の兵二〇人を使って警護させ、この後即日皇太子の儀式を済ませてしまわれたのでした。そして、仲麻呂様の亡き長男の未亡人を大炊王様の妻とし、陛下となられても、田村第と云う仲麻呂様の舘に住まわれて、そこを田村宮としてしまったのです。五月二〇日、さらに仲麻呂様は紫微内相(皇后宮を守る紫微中台の長官で、軍事権も併せ持つ役職)に任命されたのでした。これが、仲麻呂様が先に打たれた手なので御座います。
これに対し、義憤を募らせたのが橘奈良麻呂様の一味でした。しかし追い討ちをかける様に六月十五日、奈良麻呂様は兵部卿から右大弁となり、公けに動かせる兵を無くされてしまった一方、大伴古麻呂様が陸奥鎮守将軍となり、佐伯全成様が副将軍となられ、両者とも都より追い払われてしまい、この事に奈良麻呂様は大いに危機感に見舞われたのです。
また同月二一日、聖武太上天皇陛下の四九日に興福寺で文武百官を集めて法要が行われ、この時を利用して内印(詔を出す時に必要なもの)と駅鈴(関所を通る許可に必要なもの)と外印(太政官の印)を始めとする宮中の行政に必要なものや武器・宝物が、光明皇太后陛下の名の元に全て東大寺(後の正倉院)に抑えられてしまったのでした。これは亡き上皇陛下の菩提を皇太后陛下が弔うと云う名目の元に行われたのですが、当時東大寺を実質的に抑えていたのが、あの藤原仲麻呂様だったのです。つまり、権力を保証するものと財物と武器の全てがかの方の管理下に置かれてしまったわけなのでした。この結果太政官の機能は事実上麻痺し、押勝の独裁状態となっていたのです。そこで反仲麻呂一味で相談し、七月二日を期して仲麻呂を殺して皇太子を退け、次いで内印と駅鈴と外印を奪い、右大臣様(藤原豊成)を奉じて天下に号令して、今の陛下を廃して塩焼(しおやき)王様、道祖(ふなど)王様、安宿(あすかべ)王様、黄文(きぶみ)王様(長屋親王と藤原長娥子の子)の内誰でも良いから天皇に推戴すると云うこととしたのでした。
そして、宮中の味方を少しでも増やす工作の為、一味の賀茂角足(かものつのたり)様が梅雨の明けた日の夜、額田部の家に以下の者を招待し、酒を振る舞ったので御座います。ここに出席した者は、皆武人として高名な者ばかりで高麗福信様(相撲の名人、この時従四位上武蔵守)、奈貴王様(官吏、遠縁の皇族。この時まで無位)、左衛府の少尉坂上刈田麻呂様(田村麻呂の父)、巨勢苗麻呂(こせのなえまろ)様(式部大輔)、兵衛府の丸子嶋足改め牡鹿連嶋足(おがのむらじしまたり)らですが、この方達の後々の対応を考えますと、余り効果は無かったものと思われます。
ところで亡き長屋親王様と藤原長娥子様のお子である山背王様は、実の兄達である安宿王様や黄文王様の謀反計画を知り、そのあまりの危うさを恐れ、六月二八日、計画の全貌を陛下(孝謙天皇)に密告してしまったのでした。しかし陛下は七月二日、謀反をそれとなく窘(たしな)める詔を出しただけで、事を公けにはせずに済まそうとしたのです。奈良麻呂様等はこの温情に答えるどころか、事を急がせた為、次の様なことが発覚してしまったのでした。それはその日の夜、中衛府の舎人の上道斐太都(かみつみちひたつ)から、小野東人(あずまんど)様から謀反の誘いがあったと藤原仲麻呂様に密告があったので御座います。仲麻呂様は直ちに陛下に報告した後、自らの三人の息子達にこう命じたのでした。
「真先(まさき)、訓儒麻呂(くすまろ)、朝狩(あさかり)、牡鹿連嶋足と中衛府の兵を率いて、今すぐ道祖王と塩焼王様の舘を囲み、捕縛するのだ。逆らう者は、逆賊として斬って捨てよ。急げ。」
こうして折からの嵐の中、息子達と中衛府の兵を動かして道祖王様の舘を包囲したのでした。そこにはたまたま秦調子麻呂もいて、舘の入り口に雨に打たれながら仁王立ちして立ちはだかったので御座います。まだ秦氏の兵は一人も集まってはおりません。これと云うのも、小野東人様が謀反決行の日まで同志を集めていたのが災いし、先手を打たれたからで御座います。調子麻呂は兵が来るまでの間、小野東人様の護衛をしていたのですが、ここに至ってはもうその様なことを言っている場合ではありません。身を呈して東人様の身を守ろうとしたので御座います。また兵が来るのが遅れていたのは偶然では無く、関わりになるのを恐れた太秦宅守様から指令が出ていて、東人様の領地の備前や機内の秦部の者は一人も動けなかったのでした。調子麻呂は橘から秦氏が受けた義理を一人で返す為、それを承知の上でまるで兵を待っているかの様な芝居をしていたのです。
門に立ちはだかる調子麻呂の必死な形相に中衛府の兵達は怯んでおりましたが、その間をすり抜けるようにして、やはりぐしょ濡れの牡鹿嶋足が現れたのでした。
「ここぁおいに任せてけれ。よう調子麻呂久し振りっす。」
「嶋足、出おったか?」
「今日ぁ国栖赤檮さ、どっちゃ(どこだ)? お休みが。」
「黙れ。お前如き一人で十分と云うことよ。いざ参るぞ。」
と言って太刀を抜き放つと、嶋足もこれに応えて、
「皆手どご(を)出すなっす。そえ(あれ)さ因縁さある故おい一人ばり(だけ)仕留めるし。調子麻呂、筑紫での借りさ今返すっす。」
と言って、一段と太い陸奥の刀、蕨手刀を抜いたので御座います。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊