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一縷の望(秦氏遣唐使物語)

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「兵部卿からの誘いか、我らの所にも北家八束様を通してお話があった。だが、是とも否
とも言わず考えさせてくれ、と言っておいた。ついでに北家の統領の永手様(八束は同母弟)からも密かに相談を受けてな。この謀反は駄目だから、同じ様に有耶無耶に返事をしておけ、としておいた。これは仲麻呂を追い落とす好機だから加担したいのは山々なんだが、どうもこちらの側には仲麻呂の向こうを張れる人物がおらん。やるんなら吉備真備が大宰府から帰って来てからだな。左大臣(橘諸兄)様と云う人物もいるが、かの人は最近身体の具合が悪いそうだ。とても仲麻呂には対抗できまい。私も頭が良い方だが、人望も無いし、第一兵法の方は空っきしだ。はっきり断ってもいいんだが、もし仮に仲麻呂が破れたりするとまずいしな。お主(ぬし)らも、考え中とか入って誤魔化しておけ。それで左大臣様がどうなるか注意して見ておくのだ。それで答えは出る。」
と雄田麻呂様は一気に捲し立てると、にやりと笑ったのでした。兄の宿(すく)奈(な)麻呂様も渋い顔をして腕を組みながら、傍らでこの話を聞いておりました。そのお姿は、今は亡き宇合様に生写しと言われておりますが、その心根もまた似通っていて、弟とは対照的にまことに男らしい立派な方でありました。
 雄田麻呂様を訪問した帰り道、種継様の乗る馬の手綱を調子麻呂が取りながら、三人は葛野の舘を目指しておりました。夜道の中を、赤檮が手に松明を持って照らして進んでいたのです。しばらくして、種継様がこう口火を切られました。
「今の雄田麻呂様の話、たぶん全て真実(まこと)だろう。」
 その言葉に対し、いつもの様に調子麻呂が答えたのでした。
「で、秦氏としてはどうするので御座いますか。このことが東大寺で橘氏に世話になった秦部(秦氏の下層民)に知られれば、皆奈良麻呂様にお味方すると言って騒ぎ出しますぞ。」
「分っている。橘にも良い顔をしたいし、雄田麻呂様の言う様に勝ち目の無い戦に皆を巻き込むことも出来ないし、どうしたもんかなあ。」
 そう種継様が言うと、三人は暫く黙りこくってしまい、ようやく口火を切ったのは何と赤檮でした。
「種継様、それなら様子を見ると云うことで、私達二人の内一人が捨て駒となって、兵部卿様の所に参りましょうか?」
と赤檮が提案された途端、横にいた調子麻呂が口を挟んだのでした。
「そのお役目、この調子麻呂にお任せ頂きませんか?」
「おい、調子麻呂、まだ種継様は何も仰っておらぬぞ。」
「いや、どうせ負け戦なら、死ぬのは弱い方が良う御座います。それに私はあの奈良麻呂様とは、種継様のお供で行った鳥(と)狩(かり)(鷹狩)の場で身分の差も厭わずに親しく話し掛けられ、それ以来の個人的な関係があるのです。またあれ程世話になっておきながら、我らの内一人もかの人にお味方しないのは寂しゅう御座います。」
「おい、調子麻呂、そんなことを言うな。俺達はいつも一緒だったろう。」
 話が堂々巡りを始めそうだったので、思わず種継様は二人の話に割って入ったのでした。
「それなら私がどちらが行くか決めよう。責任は全て私にある。奈良麻呂に味方するのは調子麻呂お主だ。それと国栖(くず)姓のままでは秦部どもを指揮するに当たって侮られよう。私が許すから、今後は秦(はたの)調子麻呂と名乗るが良い。良いか秦調子麻呂、残った家族も皆秦姓を認めるから、家族のことは心配せず、存分に働いて来い。」
「はっ、畏まりました。」
 赤檮はそれ以上何も言いませんでしたが、黙ったまま調子麻呂を抱きしめ、背中を叩いたのでした。
 話は兵部卿(橘奈良麻呂)様の舘における歌会に戻りますが、かの方はさらにこう話を続けられたのです。
「この調子麻呂も鷹飼でな。先日長年大事にしていた鶻(隼)を無くしてしまったんだそうな。奴とは鳥(と)狩(かり)(鷹狩)のことでも意気投合しておっての。そう言えば、先だって少納言(大伴家持)様より頂いた鷹の雛も元気ですぞ。名を親の桜井に因んで梅花と鷹らしからぬ名を付けましたぞ。ははははは。」
 その様子を黙ってみながら、佐伯全成様は黙って渋い顔で腕を組んでおりました。かの人は、これまでさんざん兵部卿様より共に事を起こすことを誘われて、その度はっきり断ってはきたのですが、こうしてこの様な歌会に参加してしまうのです。それだけ兵部卿様に頼りにされていることは分っているのですが、この段階であの仲麻呂様を相手にすること等、無謀としか言い様がなく思っていたのでした。陸奥守の彼がこの席にいたのは、大仏供養に参加する為なのです。
とまあこの様な歌会が度々開かれておりましたが、左大臣(橘諸兄)様の従者の左味宮守と云う男が仲麻呂様と通じていて、この歌会の内容を詳しく病床の上皇(聖武天皇)陛下に密告してしまったので御座います。しかし、橘諸兄様贔屓の上皇陛下はこれを一笑に付され、何のお咎めも無かったのでした。とは言うものの事は公になってしまいましたので、左大臣様はこれを恥じ、職を辞してしまわれたのです。その後隠居生活に入ったのでした。
ところで、上皇陛下のご容体は相変わらず芳しくなく、ついに天平勝宝八(西暦七五六)
年五月二日、桜の散る中崩御されたのでした。上皇陛下が亡くなられて一年の間、藤原仲麻呂様は喪に服す光明皇后陛下の元に足繁く通い、仲睦まじかった上皇陛下を失った悲しみを慰められたのです。元々かの方を憎からず思われていた皇后陛下は、ますます信頼が厚くなり、まるで想われ人同士の如くなられてしまったのでした。お二人の関係を、肉体関係があったかの様に噂する向きも有りますが、皇后陛下が既に五十路を半ば過ぎられていることを考えても、それはいささか考え過ぎの様な気が致します。それよりも、仲麻呂様の事を亡くなられた基皇子(もといのみこ)の様に思われて可愛がられていた、と考える方が自然な様な気がするのですが、いかがでしょうか。
 また上皇陛下崩御の時かの方は、皇太子にははっきりと道祖(ふなど)王様を指名なさったので御座います。あの塩焼王様の弟でした。塩焼王様ご自身は、以前に事件を起されたこともあって仕方の無い部分もありますが、その弟の道祖王様が皇太子になられるのは何の差し障りがありましょうや。ただ一つ気になることは、藤原との関係が薄い、と云うことだけなのでした。橘諸兄様がご健在なら何とかなったでしょうが、まずはかの人に不都合(死)が起こってしまうので御座います。と言いますのは翌年の天平宝字元(西暦七五七)年正月六日、都合の悪いことにその橘諸兄様が失意のまま亡くなられてしまったのでした。雄田麻呂様の予言通り、肝心の橘諸兄様は病で亡くなり、いよいよ兵部卿様に勝機は無くなってしまったのです。
 ところで諸兄様は亡くなる時、少納言(大伴家持)様を枕元にお呼びになり、次の様に頼みごとをされたのでした。
「少納言殿、私が死んだら、やり残した万(よろず)の言(こと)の葉(は)を集める仕事(万葉集の編纂)を、そなたの手で必ず完成して下され。」
 少納言様はすかさずこう答えられたのです。
「承知致しました。この少納言、命に変えましても、この仕事を成し遂げてみせますので、どうか、御安心下さい。」