一縷の望(秦氏遣唐使物語)
つまり、土木工事に携わる事や葬儀を行う事を禁じていない受戒が、日本で初めて為された事になるのでした。むろんこの後、官僧はそうした事を禁じられはしたのですが、官僧以外の者にとっては、これだけで終わりなのです。
さて、鑑真和上様達の動き、すなわち良弁少僧都様や隆尊律師様の正式な受戒を確立しようと云う動きは、以前にも申しました通りこれまでの僧、私度僧よりはむしろ官僧にとって都合の悪いものでありました。正式な受戒が行われるまで日本では、「自称作法」と呼ばれる、言ってみれば自己評価によって僧になることを許可していたのであって、つまりは私度僧も公の認める高僧も、あまり大差は無かったのです。ですから、そう云った既得権を守ろうとする日本の高僧達と、鑑真和上様とその支持者達との対決が、この受戒で表面化してしまったので御座いました。ですが最初から無理のある議論で、高僧側はその主張を公の場でことごとく論破され、皆反論出来ず黙ってしまうしか無かったので御座います。そうした和上様を支持し、受戒を受け直す僧には中堅の僧が多く、彼らが積極的に戒を受けることによって、この制度が早く浸透したと言えましょう。
そしてこの年の七月十九日猛暑に耐えられず、ついにあの藤原宮子皇太夫人様が、青衣を着たまま亡くなられたので御座います。鑑真和上様が、生前皇太夫人に唐渡りの薬を、最近特に弱って来て失明寸前となりながら自ら調合して飲ませ、一時的に効果はあったものの、ついに帰らぬ人と成ってしまわれたと云うことです。なお和上様は目が弱くとも鼻で薬を嗅ぎ分け、調合を行ったと伝えられております。
母である宮子皇太夫人様の後を追う様に、上皇(太政天皇)陛下の病が重くなってしまいました。その病平癒を願って、上皇陛下の十八の仏具に和上様の連れて来た唐僧の一人が清めの儀式を行い、日本僧にそれを続けて行うように促すと、彼らはそれを承服せず、しまいには怒鳴り出す者まで出て来てしまったのです。しかし、その者は途端に卒倒して倒れてしまったのでした。それ以降、この儀式は差し障りなく行われたそうなのです。その後も両者の対立は続き、ついには島流しになる日本の高僧まで出る始末で御座いました。
また十一月二八日の肌寒い中、こんなこともありました。上皇陛下の病気平癒の為の歌会が、兵部卿橘奈良麻呂様宅で御座いました。出席者は兵部卿様の他に父上の左大臣(橘諸兄)様、亡き長屋親王様の忘れ形見安宿(あすかべ)王(おう)様、藤原仲麻呂様に対立している参議の北家藤原八束(やつか)様、少納言(大伴家持)様、その甥で先頃の遣唐使で鑑真和上様を送り届けた左大弁(大伴古麻呂)様、越前守の佐伯美濃麻呂様、陸奥守佐伯全成(またなり)様、先の藤原広嗣の乱にも連座して伊豆に流され、今は備前守に復帰した小野東人様、遣唐使で秦朝元様とも親しい多冶比氏から遠江守の多冶比(たじひ)国人(くにひと)様、多冶比犢養(こうしかい)様、紫微中台で大忠を務め、仲麻呂様の部下でありながら一味となった賀茂角足様等と、そして左大臣様の従者左味宮守でした。しかし歌会と申しましても、酒も入ったかなり生臭い物だった様に御座います。その席ではこの様な話があったそうです。まず、兵部卿様が話の口火を切られました。
「父上、上皇陛下はもう相当危ないので御座いましょうか?」
「うむ、初めは眼病だけだったのだが、身体中の方々が悪くなり、色々手を尽くしたが、いよいよ危ないらしい。」
と左大臣様がお答えになると、当時兵部少輔であった少納言(大伴家持)様が、こう仰いました。
「それでは上皇陛下の後ろ盾あっての橘は、たいそう微妙な立場になりそうですな。」
兵部卿様がそれを受けて、こう仰いました。、
「そうだ。いよいよ陛下(孝謙天皇)と藤原仲麻呂の天下と云う訳よ。」
「次の皇太子は誰になりそうなので御座いましょう。」
と佐伯美濃麻呂様が誰ともなくお聞きすると、左大臣様がこうお答えになりました。
「どうやら上皇陛下は道祖(ふなど)王様をお考えらしい。本来なら流罪の罪を償って戻って来た兄
である塩焼王様なのだろうが、流罪であったことは優先順位を下げるのだろうな。」
その言葉を聞いて安宿王様は、何も言わず少し顔を曇らせなさったのでした。その安宿王様の様子に気付かぬまま、兵部卿様は話を続けられたのです。
「しかし仲麻呂は既に紫微中台(皇后宮を管理する役所)の令(長官)となっておりまする。今、上皇陛下に亡くなられたら、完全に仲麻呂の思うがままとなってしまいます。」
「そうなったら、まっさきに粛清されるのは我が橘であろうな。」
「仲麻呂討つべし。」
先程から、珍しく黙って飲んでいた左大弁様が、突然大きな声で言われたのでした。
「古麻呂、控えよ。」
と、伯父の少納言大伴家持様が真剣に甥を窘(たしな)められると、
「いや、仲麻呂討つべし。」
と、兵部卿様は繰り返されたので御座います。そしてそれに合わせて小野東人様が、
「そうだ、討つべし。討つべし。」
と囃し立てたので御座います。さらに、
「我らには秦の一族もついておる。調子麻呂、面を上げよ。」
何と、先程から庭に控えていた小者の中に、あの朝元様の従者だった調子麻呂がいたのです。
「はっ。」
と、調子麻呂が短く答えると、
「この者は、今は亡き秦忌寸朝元様の元従者での。私の配下の秦部の軍の指揮を取ってくれることとなっておるのだ。名を秦調子麻呂と云う。この者が指揮を取れば鬼に金棒。仲麻呂等恐れるに足らん。のう、そうだのう調子麻呂。」
「はっ、お任せ下さいませ。」
と言って、元の位置に下がったのでした。
この時調子麻呂は、自分が今ここにいる経緯を思い返しておりました。兵部卿様がいよいよ謀反にお立ちになると決心し、秦一族への同心を自ら太秦宅守様の所へ頼みに来たのですが、まだ若い宅守様には判断がし難く、故秦朝元様の妻である梨花様のいる葛野(かどの)へ相談に来られたのです。若かった梨花様はすっかり年齢(とし)を召され、一族の長老気分でいらっしゃいました。外聞を気にして黒く染めていた髪も、今は年相応だろう、と称して白いままなのです。しかしこの件については一族の命運を分ける為やはり判断がし難く、まだ二十歳にもならない種継様に相談されたのでした。種継様はこれに対し、こう仰ったのです。
「私の様な若輩者に、どうして一族の命運が賭けられた判断等出来ましょう。私が知る限り最も頭の良い方は、同じ式家の雄田麻呂(後の百川(ももかわ))様に御座います。今から行って、早速相談してみましょう。」
「そうかい。でも私はどうもあの雄田麻呂様と云う方は、まだ若いのに陰険で気に食わないね。とにかく種継がそう思うんなら、早速行ってみるがいい。供に赤檮(いちい)と調子麻呂を付けよう。」
それで式家の雄田麻呂様の所に密かに相談に行くべく、その夜当時雄田麻呂様が住んでいた懐かしい故宇合様の舘へ向かったのでした。当時の当主は兄の宿奈麻呂(後の良継)様で、種継様の来訪にお二人で迎えられたのです。種継様が早速来意を告げられると、雄田麻呂様は気忙しげにお話し始めたのでした。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊