一縷の望(秦氏遣唐使物語)
またこの実忠法師様が、良弁法師様の命を受けて東大寺と同時進行で作られてたのが、前述した頭塔(ずとう)(土塔)なのです。頭塔は東大寺の南の正門から真っ直ぐ行った所に築かれ、後に最澄様や空海様が持って来られる曼荼羅の世界を、立体的に表現されたものです。実忠法師様は、天竺より持ち込まれた密呪の知識を元にこれを完成されたのでした。その中央に鎮座するのはもちろん大日如来様であり、東大寺に祭られているものと同じなのです。後に空海様が東大寺別当となられるのも、納得の行くことと存じます。
なお開眼供養の後、陛下(孝謙天皇、かつての阿倍内親王)は大納言藤原仲麻呂様の舘の田村邸の宴会に行き、そのままそこに居ついておしまいになり、田村邸が田村宮と化してしまったのでした。陛下と仲麻呂様が男(おのこ)と女子(おなご)の関係となられたのはこの時であることを、後に陛下付きの采女である広虫様より伺っております。祝いの浄(すみ)酒(ざけ)にお酔いになった陛下は、この時三十路も半ばに差し掛かろうという女盛り。すっかり正体を失って、仲麻呂様と広虫様で肩をお貸して田村邸の寝所まで運ばれたのでした。いつもならその後は広虫様が介抱されるのですが、お酔いになった陛下は、寝所に寝かされた途端、朦朧として眼のままお起きなされて、腹心の広虫様に対して、こう仰ったのです。
「広虫、何をしておる、せっかく憧れの仲麻呂様と二人っきりになれたと云うのに。お前は邪魔だ。すぐここを立ち去れ。」
広虫様は、やれやれと云う顔をなされて仲麻呂様の顔をご覧になると、仲麻呂様は笑いを堪えながら頷かれたのでした。
「それでは紫微令(仲麻呂)様、陛下を宜しく頼みました。」
と言ってその場を下がった振りをして、衝立の陰に隠れてその後の展開を見定めたのです。
仲麻呂様は椀に水など入れて、陛下に飲ませられたり、しばらくはかいがいしく介抱されていました。やがて、陛下は暑い暑いと言いながら礼服をお脱ぎなろうとされたので、仲麻呂様も、陛下を寝かせる為かごてごてとした礼服を脱ぐのを手伝われたのです。そして白い汗衫(かざみ)姿にまですると、たまらず陛下の唇を激しく吸われたのです。陛下は仲麻呂様に抱かれながら、自らの両腕をかの方の首に回し、こう叫ばれたのでした。
「これでやっと母上(光明皇后)に勝てた。仲麻呂様は我のもの、初めての男だ。」
「陛下。」
と仲麻呂様もまた叫ばれ、広虫様はここまで聞いて下がられたのでした。
また次の年の天平勝宝三(西暦七五三)年四月二二日、開眼供養の功により婆羅門僧菩提僊那様が僧正に、良弁法師様が少僧都に、華厳経の講義をなされた道?(どうせん)法師様、別当をなされた隆尊法師様を共に律師へと任命する勅が出されたので御座います。しかし、この中に行基大僧正様の名が無いのは、誠に寂しいことと存じます。
さて同じ年の十二月七日、遣唐使船の吉備真備(かつての下道真備(しもつみちまきび))様の乗る第三船が、二十日には大伴古麻呂様と鑑真和上様御一行の乗る第二船が、薩摩国阿多郡秋妻屋浦(あきめやのうら)に漂着したので御座います。さらに都に着くのは、来年(天平勝宝四年)のこととなってしまいます。第一船と第四船の運命は、先に申しました通りです。
鑑真和上様は、第一回の来日計画から実に十二年、五度の失敗を経てついには栄叡法師様を始めとする三六人の弟子を失い御自身は失明寸前になられても、六度目についに念願を果たし、日本の律宗の創始者となられたのでした。薩摩国から難波へ行き、故行基大僧正様の弟子法義法師様が出迎えられて饗応された後、河内の国府へと行き、この度の遣唐大使藤原清河様(渡海失敗)の弟である北家の魚名様がそこで迎えられ、そこにはわざわざ大納言様(藤原仲麻呂様)の使いや朝元様と日本にいらっしゃった道?律師様も来て、長旅を慰労されたのです。勿論息子を大切にする大納言様は、六男の刷雄様の無事も確認されたかったのでしょう。一行は続けて都に入り、さっそく東大寺の大仏殿を良弁別当様が案内し、黄金に輝く蘆舎那仏を、唐にも無いものと得意満面に説明したのでした。ここに唐禅院が出来るまでの間、この東大寺の一角に鑑真和上様一行はお泊りになったのです。
また私と共に帰国した藤原刷雄は、父仲麻呂様の使いとの挨拶を済ませると、何か華やかなものに抱きつかれたのでした。
「お兄様、御無事のお帰り、おめでとう御座います。東(あづま)子はどんなに心配しましたことか。魚名おじ様頼み込んで、こっそりここまで来てしまったの。」
見ると、晴(はれ)の汗衫(かざみ)を着こんだ腹違いの妹の東子様でした。刷雄様は東子様と年齢(とし)が比較的近い所為か仲が良く、実の兄弟の様に親しんでいたのです。それにしても、切れ者と噂に高い魚名様も、美しい東子の頼みを断り切れなかった様で、魚名様自身はどこか物陰に隠れてしまった様なのでした。
「東子、久し振りに会えて嬉しいのは私も同じだが、女の子が人前で男に抱きつくなど見っとも無いぞ。」
少女と言ってもまだ幼い東子様は、そう刷雄様に窘められると、少しいじけた様にこう言ったのでした。
「だって、だって遣唐使は生きて帰れるのは三割の可能性だって、お母様が仰るのだもの。東子は心配で、心配で夜も眠れなかったのですよ。」
刷雄様がそれに何か返事をしようとした時、共に帰国した吉備真備様の四人の息子与智麻呂様、書足様、稲万呂様、真勝様が二人の会話に気付き、近付いて来たのです。
「これはこれは、何と美しい乙女か、刷雄、これが大和撫子と云う奴か? お前の知り合いなら是非に紹介してくれ。」
と一番上の与智麻呂様が言い、四人のむさ苦しい若者が近付いて来たのでした。この様な武人風の者達と関わりを持ったことも無い東子様は、驚いて刷雄様の服の陰に隠れてしまったのです。
「止めよ。妹の東子を見るな。汚(けが)れる。」
それを聞いた二番目に年長の書足様が、こう言ったのでした。
「あーあ、つまらないの。俺達が見ただけで汚れるってさ。」
それに続いて、稲万呂様がこう言ったのです。
「唐では父上(吉備真備)の元で共に修行に励んだ仲なのに、倭に着いた途端にこれだもんな。お高く留まりやがって。ま、確かに俺達とは身分が違うんだけどな。」
最後に真勝様が、こう言ったのでした。
「行きましょう。兄上達。我らは久し振りの兄妹対面のお邪魔の様だ。」
四人が頭を掻きながらあちらに行ってしまうと、兄の背中から東子様が半べそを掻きながら姿を現したのです。
「東子、泣くな。彼らも悪気が有ったのでは無い。東子があんまりにも可愛いので、ついちょっかいを出してしまっただけなのだ。」
「でも、でも、東子は怖おう御座いました。」
と言って東子様はまた泣き出しましたので、刷雄様は優しく抱きしめられて、背中を軽く叩かれたのでした。
四月になって、東大寺に戒壇(戒律を受ける為の場所)が出来上がり、まず最初に太上天皇陛下が鑑真和上様から受戒され、その後四三〇余人の受戒がされたそうに御座います。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊