一縷の望(秦氏遣唐使物語)
「だっ、だから帰国後お前に悪いと思ったからあの年(四十路)で三人もこうして子を為したのではないか。あれはあの年でなかなかに大変だったのじゃぞ。」
その言葉を聞くと、鈿女様は余計怒りの火に油を注がれた様で、偉い父と仲の良い二人しか見たことの無い回りの実子達に、目を丸くして泣きながら抑えつけられ、さらにこう叫んだのでした。
「じゃあ、都に新居を建てて呼び寄せてくれたりして帰国後やけに優しかったのは、そう云う訳だったのね。くやしい。」
真備様はそれに対し、こう言って土下座して謝るしか無かったのです。
「とっとにかくお前に済まぬことをした。いい年(四十路)をして、七人の子供や袁晋卿の前で恥ずかしいとは思わないのか。」
それを聞くと、押さえつけられていた鈿女様は急に大声で泣き始めたのでした。真備様は恐る恐る鈿女様を抱きしめると、かの女(ひと)は尚もしゃくりあげながらこう言ったのです。
「その唐の良き女はどうされたのです?」
真備は、ここぞとばかりに優しくこう仰ったのでした。
「阿史徳は羽栗吉麻呂の所と同様、日本には来れぬ。息子達も成人したので、私に泣く泣く託したのだ。悪いのは皆私だ。この子達に罪は無い。どうか、お前も堪えてくれ。」
こうして唐から来た四人の息子達も、晴れてこの舘で共に暮らすこととなり、数年後由利様と阿倍満月麻呂様の縁談が無事まとまったのです。
第二章 奈良麻呂
奥山の真木の葉しげき降る雪の降るはますとも地に落ちめやも
(橘奈良麻呂作、万葉集所収)
この歌は、左大臣となった橘諸兄(かつての葛城王)様のご子息奈良麻呂様の作ですが、詳しい歌の説明は、また話が進んだ後にしたいと思いまする。
遣唐使が唐にいる間、水銀(みずがね)や銅(あかがね)の毒で多くの秦氏の鋳物師が命を落としながら大仏の造営も進行したのですが、自らの寿命に不安を覚えた太上(聖武)天皇陛下が、天平勝宝四(西暦七五二)年四月九日、まだ未完成の大仏で梅の花咲く中開眼供養(完成式典)を行うこととしたのです。列席者は、陛下(孝謙天皇、かつての阿倍内親王)、右大臣(藤原豊成)様、その弟の大納言(平城京に大仏造営が遷されてから、それに深く貢献した藤原仲麻呂)様、左大臣(橘諸兄)様、そのご子息の参議橘奈良麻呂様、大仏他の東大寺の仏の設計者である造仏長官国中連君麻呂様等で、僧では、朝元様達が唐よりお連れした婆羅門(インド)僧菩提僊那様が開眼導師を、興福寺の隆尊法師様が講師を、東大寺の良弁法師様が初代別当(寺務を司る者)を務め、参列者は一万数千人に及んだと聞き及びます。太上天皇陛下は主催者的な存在でありながら病気の為これを欠席し、光明皇后陛下(かつての光明夫人(ぶにん)、安宿媛(あさかひめ))もそのつきそいでおられませんでした。また玄ぼう法師様が病を治した筈の青衣(しょうえ)の宮子皇太夫人様も再び具合が悪くなり、ここには来られ無かったのです。お二人がどれ程この催しに参加出来ぬことを口惜しがったか、想像するに難くはありません。また大仏造営を悲願としていた上皇(太上天皇)陛下が欠席で、しかも大仏が未完成であるにも関わらず大仏開眼供養を行いましたのは、列席の予定であったのにそれが果たせなかった上皇陛下の強い希望であったことと、先にも申しました通り、せめて上皇陛下がご存命の内に悲願であった大仏の造営の式典を執り行おうとした為でした。因みにこの東大寺の建立をしている時、当時陛下は眼病を患われていたので、開眼供養の時に眼病ではあまりに差し障りがあると考え、泣く泣く欠席されたのです。またその病気平癒祈願の為、皇太后様は東大寺以上の規模の新薬師寺を建てられていたのでした。薬師如来は、祈れば生きている現世において立ち所に救われると云うみ仏に御座います。病気平癒の為には、まさに相応しき寺であるかと思われます。またその東大寺以上の規模は、皇太后様の上皇陛下への愛の深さとその財力の大きさを示すものと申せましょう。
さて開眼供養では、菩提僊那様が開眼の為に持つ筆には五色の縷(る)と言われる長い緒がつながれ、参列者はその緒を握って血縁したそうに御座います。こうして神と仏の集合の象徴たる大仏が、形式上完成したのでした。その真の完成には、まだ時を待たねばならなかったのです。その後、秦氏の四天王寺楽人が、外国から来た者と共に五節舞(ごせちのまい)等の楽舞を奉納したのでした。その中には、宮子皇太夫人様の病を玄ぼう法師様と共に治した波斯(はじ)(ペルシア)医の李(り)密(みつ)翳(えい)も、唐(から)散(さん)楽(がく)や伎学の時に本業の舞で参加して原色の美しい布をはためかせたり、楽しげな面をつけて踊っておりました。
なお大仏や東大寺の造営に際しては、恭仁京造営中止によって仕事の無くなった秦部の者が数多く参加し、太秦嶋麻呂様は自殺していなくなったものの、その下で働いていた者達が、嶋麻呂様の子の宅守様の元に団結し、秦井出弟麻呂様・秦黒人様・秦広野様などが手助けをしたのでした。その恭仁京は橘諸兄様、奈良麻呂様の本拠地ですから、秦氏との縁も一層強くなられたのです。また大仏建立の成功を祈って、秦氏一族が筑紫の宇佐八幡から東大寺の目の前の手向(たむけ)山に勧請(かんじょう)した社(やしろ)が、「手向山八幡宮」で御座います。これは大仏造営に不可欠な銅の大部分が、秦一族でもある宇佐八幡の管理する筑紫の銅山から得たものであったからなのでした。
そして東大寺が出来た頃には、良弁法師様のお弟子で、菩提僊那様と共に日本へ来られた天竺僧実忠法師様が中心になって、二月堂を創建なされたのでした。前の年、実忠法師様が笠置(現在の京都府相楽(そうらく)郡にある町)にある龍穴(洞窟)の中へ入っていくと、そこは兜率天(天国)の内院に通じており、そこでは天人等が十一面観音の生(しょう)身(じん)を中心に侮過(けか)の行法(懺悔)を行っていたのです。実忠法師様は、この行法を人間界に持ち帰りたいと思われたのですが、その為には生身の観音を祀らねばならないのでした。人間界に戻った法師様は、難波津の海岸から観音の住すると云う補陀洛山を念じて花をお供えしたのです。するとその甲斐あってか、百日後に生身の十一面観音像が海上から流れて来られたのでした。その観音像は、まるで生きているかの様に体温を持っていたそうで御座います。その像を以って実忠法師様が行法を現世で行われたのが、修二会(しゅにえ)の始まりなのでした。修二会とは俗にお水取りとも呼ばれ、、波斯から天竺へと伝えられた拝火教の懺悔の法と最後の審判の教えを、侮過と達陀(だったん)の行法(大松明を持って走り回る)で表現したものであります。これは、もともと遠い波斯の拝火教が、日本にまで伝わっていたことを示しているのでした (また鎌倉時代以降、この修二会において過去帳が転読されている時、謎の青衣の女人が現れ、自らの名が無いことを嘆いたので、その過去帳に「青衣の女人」と記録される様になったと云う)。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊