一縷の望(秦氏遣唐使物語)
二人が笑い合う姿を、満月が遠く見つめている様でした。仲麻呂様には、もう一つだけ真備様に言いたくても言えないことが御座いました。それは、次の様なことなのです。
「真備様、本当に今まで有難う御座いました。最期まで貴方様には言えませんでしたが、私は宮刑を受けて既に男でも女でも無いのです。この様な身になってまで生き長らえられてきましたのは、一つには、『金烏玉兎集』を見付ける、と云う使命があったからです。貴方様の協力でそれを見付けてからは、日本に帰っても笑い者となるだけの私の心の支えとなったのは真備様、貴方なのです。男でも女でも無い私は、貴方様の何にも成り得ません。もしもこれが貴方様との今生の別れとなってしまったら、せめて貴方様の面影を胸に抱いて生き続けて行くことをお許し下さい。」
また出発に先立ち、思わぬ出来事が起こりました。と言いますのも、鑑真和上様を唐政
府に黙って日本へ密航するように申し出たのは、もともと遣唐大使の藤原清河様の方であったにも拘わらず、鑑真和上様がいよいよ船に乗り込む段になって、周りの者があまりに
騒ぐので、清河様は責任を取らされるのを恐れてその乗船を拒否してしまったのです。これに怒った熱血漢の遣唐副使の大伴古麻呂様は、自らの第二船に鑑真和上様御一行を独断で乗り込ませてしまったのでした。熱血漢と云うのは例えば、在唐中の王宮の賀正の席において、新羅との席次のことで争い、要求を貫いたことにも表れたおりましょう。またかの方は才能のある武人でもあり、公式の任務以外の時は唐の武術八卦(はっけ)拳の浸透勁を鍛錬して、それを驚異的な早さで会得し、後にそれを「徹(とお)し」と云う自身の技とするのでした(これによって大伴古麻呂を日本拳法『骨法(こっぽう)』の祖とする)。
しかし何が幸いするか分らぬもので、後に大使清河様の乗る第一船は嵐の為押し戻されてしまうのに対し、第二船は日本に辿り着くことが出来たので御座いますから。ただ、第一船には阿倍仲麻呂様も乗っていて、清河様同様、日本にはとうとう辿り着けなかったのです。その代わり鑑真様一行は日本に着けた訳で、何が幸いするか本当に分らぬものに御座います。
因みに今回の帰国に際し、副使の真備様より申し出が有り、現地で雇った用心棒を四人乗船させたのでした。彼らは無論、四人の息子与智麻呂様、書足様、稲万呂様、真勝様なのです。出港の折、妻阿史徳様が物陰からそっと見送られておりました。
とにかく、第二船と真備様の乗った第三船のみが、阿児奈波(あこなわ)(沖縄島)を経由して日本に辿り着き、第一船は阿児奈波までは共に来たのですが、その後座礁し、自力で脱出したものの、また流されて驩(かん)州(ベトナム)に漂着し、現地人の襲撃を受けて大部分の乗り組員が殺され、藤原清河様と阿倍仲麻呂様だけは助かり、長安へなんとか帰還できたので御座いました。因みに第四船は船火事を起こしてしまった為、第一船〜第三船とは別日程で日本に着いたのです。
真備様は、日本に帰還すると急いで『金烏玉兎集』の写しを四人の息子達と一部作り、都に帰還する前のやけに冷たい風の吹き荒ぶ日に摂津国阿倍野に立ち寄り、約束通り『金烏玉兎集』の原本を仲麻呂様の兄の阿倍好根様の舘へ届けに寄ったのでした。舘に居らっしゃったのは、兄の好根様とその奥様、もう元服の時期をとおに過ぎている様に思われる、好根様の子の満月麻呂様でした。『金烏玉兎集』を渡し、その消息を簡単に話すと、皆、有難い有難いと言って泣いて喜び、何度も何度も礼を言っていました。真備様は、ふと屋敷の中の様子が荒れ果てているのに気が付き、
「大変失礼なのだが、暮らし向きはお困りの御様子だが。」
と、そう仰ったのです。すると、兄の好根様がこう答えたのでした。
「はい、弟仲麻呂が日本に帰らず、唐で仕官したと云う話が伝わり、所領が没収され、こうして父船守の残した財産で細々と暮らしておりますが、息子の満月麻呂ももう二十歳だと云うのに元服も出来ず、出仕の目途も立ちません。どうしたら良いやらほとほと困り果てていた所に御座います。」
「左様ですか。私の後輩であり友でもある仲麻呂の縁者が、この様に困り果てているのを捨て置くことはできませぬ。明日にでも私が満月麻呂の烏帽子親になって元服させ、陰陽寮辺りに出仕出来るよう取り計らいましょう。」
この言葉に、何となく暗い雰囲気であった一家も明るくなり、先程とは違った意味で感謝の意を表したので御座いました。
「有難う御座います。このご恩は忘れませぬ。」
「うむ、満月麻呂は、渡した本を良く読んでさえいれば、そこらの陰陽師になど引けは取らぬぞ。精進せよ。」
「はい、この様な貴重な書物を頂いたのに、それを無にする様なことだけは致しませぬ。」
そう言って、満月麻呂様は目を輝かせて『金烏玉兎集』の頁を捲るので御座いました。
その時良く相手の姿を見てみると、満月麻呂は元々の容姿は叔父の阿倍仲麻呂様に良く似ておる様でしたが、見る影も無く痩せ細っています。
真備様はようやく仲麻呂様との約束を果たすと、妻の鈿女(うずめ)様と家族の待つ大和(やまと)国の三輪
の外れにある我が家へと戻られたのです。なお、この時知り合った満月麻呂様は真備様立ち合いの元に元服して、その縁があって、年頃となった長女の由利様の婿とされたのでした(この阿倍満月麻呂の子孫に、有名な阿倍清明が出る)。しかしこの縁談をまとめる前に、真備様の家では一波乱有ったのです。それは、真備様が自宅に唐での息子達、与智麻呂様、書足様、稲万呂様、真勝様を正妻の鈿女様に紹介した上、唐での妻阿史徳様についても洗いざらいお話になってしまったからなのでした。根が正直な真備様は、阿史徳様や息子達のことを何時までも隠していることに耐えられなくなってしまったのです。その時舘には鈿女様の他にも、そのお子様達の泉様・由利様・枚男(ひらお)様や居候の唐人袁晋卿様までいたのでした。真備様の告白に、しばらく下を向いたまま黙っておられた鈿女様は、やがてわなわなと身体をふるわせ始めたかと思うと、突然何時ものお淑やかさからは想像も出来ない程の金切り声を挙げられたのです。
「きいー、若い身空で一緒になり、新婚で有りながら切り裂かれる様に貴方様は唐へ行かれてしまわれた。その後二十数年、貴方様は一人唐の下で必死にお耐えになって学問を身に付けていらっしゃると信じて、私も独り身で待って居りましたのに、実は貴方は唐の良い女(ひと)と子まで四人もお作りになっていたのですね。くやしいー。」
そして、辺りに有った木製の食器やら何やらを手当たり次第に真備様に投げつけたのでした。この時代、二人の妻を持つ等当たり前のことでは有ったのですが、前述した様に秦氏では夫婦は男女一組で、生涯添い遂げるべしとの教えが有りましたので、鈿女様も耐えきれなかったので御座います。またこう言っては何ですが、真備様が下手に出られたのも原因の一つかと思われます。とにかく真備様は器用に投げつけられる物を避けながら、こう言ったのでした。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊