一縷の望(秦氏遣唐使物語)
「『金烏玉兎集』のことなら、唐昌観に亡き師が隠した筈で御座います。亡き師は皇帝陛下の命で隠された筈ですから、陛下が何もお教えしなかったのは、それを手に入れると朝衡様が倭へ帰ってしまわれると思ったからだと思われます。実は私も、故国に帰れぬ貴方様を密かに御同情申し上げていたのです。他ならぬ朝衡様の頼みですからお見せしますので、どうぞ写すなりなんなりなさって下さい。唐昌観の隠し場所の部屋の鍵は私が持っていますので、今から二人で行きましょう。何しろ門外不出の書物ですから。」
と、あっさり答えたので御座います。朝衡様は意外な展開に驚きながら、念の為吉備真備様への伝言を託されてから、呉?の後に付いて唐昌観に向かったのでした。すると唐昌観の施設の一部に塔があり、その最上階へと案内されたのです。
「ただ今隠し場所から『金烏玉兎集』を取って参りますので、しばらくお待ち下さい。」
と言って呉?は、部屋の外に出て行きました。その時、やけに引き戸を閉める音が気になったので、銅で出来た戸を開けようとしますと既に鍵が掛かっていて、閉じ込められていることに気付いたので御座います。
「呉?様、この戸を開けて下され。私が何をしたと言うのです。」
戸の外から呉?が言うことには、
「お前は出世し過ぎたのだ。遣唐使が来る度に出世されていたら、我らの立つ瀬が無い、と宰相楊国忠様のお達しだ。この部屋は特別の造りをしていて、お前さんの術を持ってしてもどうにもならんぞ。そこで腹を空かして死ぬが良い。」
と云うことで、呉?は高笑いをしながら階下へと降りていってしまったのでした。
一方大秦寺の真備様は、使いの者から朝衡様からの伝言を受け取り、それには「唐昌観に行ってくる」とだけ書いてあったので、その日一日、そしてそれから三日、朝衡様からの連絡を待ったのですが、何も言って来ませんでした。これは何かあったな、と思い、何とか呉?を見つけて問い質したかったのですが、とうとう出会えぬまま十日の月日が経ってしまいました。ようやく十日目に唐昌観の前で呉?を捕まえて、朝衡様のことを聞いたのですが、
「さあ何の事だか分りませんなあ。」
と答えられてしまいました。それで途方に暮れていると、一月(ひとつき)経った頃、呉?の方から連絡があり、朝衡様が見つかったので唐昌観まで来て欲しい、と云うものです。呉?にいらぬ警戒心を持たせまいと、その時だけは息子達の護衛を大秦寺に置いてさっそく行ってみたのでした。すると、朝衡様を閉じ込めた塔の所にまた案内して、塔に入った所で真備様を突き飛ばして、再び蒸し暑い塔の中へ閉じ込めてしまったのです。外から呉?が、
「その塔には、数週間前から夜な夜な鬼(幽霊)が出て困っているのだ。朝衡同様そんなに『金烏玉兎集』が欲しいなら、この塔のどこかにある筈だからその鬼(幽霊)に食われん様に探すのだな。」
と言い残して立ち去ってしまいました。真備様は、
「東海の神、名は阿明、西海の神、名は祝良、南海の神、名は巨乗、北海の神、名は禺強、四海の大神、百鬼を退け、凶災をはらう。急々如律令。」
と身を護る呪文を唱えなさり、本当に鬼が出てくるのか、お待ちなされたので御座います。夜になって鬼らしき半透明のものが現れ、いざ現れたかと真備様が息を呑んだ所で、その鬼がこう言ったので御座います。
「何だ、真備様ではないですか? 私ですよ、阿倍仲麻呂で御座いますよ。」
真備様は驚いて良く良くその人の様な物に目を凝らすと、確かに半透明の朝衡様でありました。
「仲麻呂、探したぞ。一体その形(なり)はどうしたと言うのだ。」
「真備様。私はこの塔の最上階に閉じ込められて、術の力で生き霊となって部屋の外に助けを求めていたのです。しかし普通の者は夜私を見ると、鬼が出た、と騒ぐばかりで、一向に話を聞こうとしないので、今日まで貴方様に連絡も取れずに困っていました。だが良いこともありました。この部屋の中に、やはり『金烏玉兎集』は有ったのです。まさか生き霊にならなければ見つからない所に隠していたなんて、やはり亡き司馬承禎はただ者では無かったのですね。」
「そうだったのか、身体の方は大丈夫なのか。」
「はい、飲まず食わずで閉じ込められているので、肉体の方は仮死にしてあります。ああしておけば当分大丈夫です。それより呉?は、明日あなたが鬼に食われたかどうか伺いに来て、無事だと分ったらさぞかし驚くでしょう。あなたはその心の隙を衝いてすかさず交渉をして、もしもそちらの出す三つの問題が解けたら、ここから自分も私も出してくれるよう言うのです。あちらが自由に問題を出して良い条件なのですから、呉?も文官の意地に掛けて乗ってくるでしょう。全て問題をこちらが解いても、呉?が約定を破る可能性は十分有りますから、問題を解く間にここに有る物を使って六壬式盤(りくじんしきばな)(陰陽道の基本的な道具)の地盤と天盤を簡易的に作り、『金烏玉兎集』の術を使って呉?に日と泡吹かせてりましょう。うまくやって下さい。」
と言うと、すっと消えてしまいました。翌朝、朝衡様の予想通り呉?が様子を窺いに来て驚いたので、言われた通りその心の隙を突いて交渉をしてみると、かの人もこちらの思惑通り乗って参ったので御座います。そこで打ち合わせ通り交渉して、三つの問題を全て解いたら、ここから二人とも出してあげよう、と云うことになりました。
「それでは『文選(もんぜん)』の内容を申してみよ。」
と呉?が言うのですらすらとその内容を語り、また本文も暗誦して、
「この書は、私の母国の日本では誰もが私の様に暗誦していますよ。問題が簡単過ぎて面白くありません。次はもっと骨のある奴を頼みます。」
と真備様が付け加えると、呉?は顔を真っ赤にしてくやしがったのでした。
「では一晩考えてくるから待っていろ。それにしてもお前、喉も渇かないし、腹も空かんのか。」
「ははは。こんなこともあろうかと、満腹する秘薬を持って来たのだ。お生憎様だな。」
と真備様は言い返しました。本当に術の力で飲まず食わずにいても大丈夫なのでしたが、
それも暫くの間のことに過ぎないで、それを相手に悟らせない様に自信たっぷりに言ったのです。
次の日、囲碁の名人と云う男が中に入れられ、その男に勝ったら二番目の問題を解いたことにする、と云うのでした。囲碁に関しては弁正様直伝の腕でしたが、やはり名人ともなると強敵で、悪いこととは思いながら術を使って相手の石を一つ引き寄せ、隙を見て呑みこんでしまわれたので御座います。勝負は石一つの差で真備様が勝たれましたが、呉?は、石が足りないことから真備様が石を一つ呑み込んだのではないか、と物言いをつけ、真備様の口に指を突っ込んでまで吐き出させようとしましたが、予めそのことを予想して術をかけておきましたので、何も吐き出されることはありませんでした。(この話により、真備は日本における囲碁の祖と言われる。)
呉?は信じられないと云う顔をして、
「明日こそ目にもの見せてくれる。」
と捨て台詞を吐いて、行ってしまったので御座います。
また次の日、呉?は、
「ここに『野馬台詩』と云う漢詩がある。この詩の意味を述べてみよ。」
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊