小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

一縷の望(秦氏遣唐使物語)

INDEX|48ページ/127ページ|

次のページ前のページ
 

「皆様初めてお目に掛かります。私は日本国より参りました栄叡と申します。今日は日本の国の仏教界を代表して皆様にお願いがあって参りました。日本には現在正式な戒を授ける伝戒師が足らず、仏教を広めるのに支障を来たしております。この中でその資格のある方に、是非とも来日して頂きたいのです。」
と訴えられたのでした。それに対し、しばらく待っても誰からの反応もありません。これを気の毒に思った鑑真和上様が、
「この中で誰か正しき仏の道を伝える為に、倭(中国における日本の呼び名)へ渡ろうという者はおらぬのか。」
と言葉を添えて下さったのですが、それでも何の反応もありませんでした。前回と今回の往路は安全だったとは言え、日本へ渡るのは命懸けの旅です。ここに居れば安泰なのに、わざわざ自分からそんなことをしたい者などいる訳がありません。場の白けた雰囲気を和らげる為、二人の日本の僧は持参したお土産を渡すことにしました。
「ほう、それは何ですか?」
と鑑真和上様が尋ねられるので、栄叡法師様がこう答えました。
「はい、これはこの度作成された日本書紀の写しと、我が国の貴人である長屋親王様が作ることを命じられた袈裟の一つで、唐の僧の皆様に献上されたもので御座います。この袈裟は、有難い漢詩が書かれているのです。日本書紀には、我が国に仏教を広められました聖徳太子様について書かれています。」
「ほう、それは信心深い親王様ですが、その方は今どうされていらっしゃるのですか?」
 今度は普照法師様が、
「残念ながら、親王様を逆恨みする者達に陥れられて憤死なさり、今は儚くなっていらっしゃいます。これも、日本国には受戒僧がおらず私度僧が横行し、それらを長屋親王様が厳しく取り締まられたからなのです。どうか皆様、どなたでも結構で御座います。この様な悲劇を繰り返さない為にも、誰か日本の受戒僧になって頂けませんでしょうか?」
とこうお答えになられると、しばらく何事かじっと考えておられた鑑真和上様は、
「これでもまだ誰も行こうとは言い出さないのか?」
と念を押される様に仰ってから、意を決した様にこう宣言されたのでした。
「私が昔聞いた所によりますと、南岳の思禅師(しぜんじ)(天台宗開祖慧思(えし)のこと)は遷化(死去)の後、倭国の聖徳太子に生まれ変わってその国に仏法を興したそうです(昔から中国の秦氏が朝元の父親秦弁正などが流した話)。また今聞いた所によりますと、倭の長屋親王は仏法を崇拝して千の袈裟を作り、その袈裟の縁上に有り難いお言葉を縫い付けて我が国の僧に贈ってくれたそうです。この様な事を考え合わせますれば、倭は本当に仏法興隆に縁の有る国と言えましょう。身の危険等厭っている場合ではありません。誰も行く者がいないなら、誰あろうこの鑑真が参りましょう。」
 周りの高僧達は、師匠の唐突な言葉に慌てふためいおりましたが、その中で如海法師が立ち上がってこう申し上げたのです。
「和上お一人をどうして遠い倭へと送れましょう。不肖私めもお供致します。」
 如海法師の言葉に、
「拙僧も。」
「拙僧も。」
と次々に声が上がり、ついには二二人の高弟が希望したので御座いました。
 さっそく一行は、先の李林甫様の計らいで日本へ行く積りで、既際寺と云う所で出航の風を待っていました所、海賊騒ぎなどで出立が伸び伸びになってしまいました。その間に道抗法師様と如海法師の間で諍いが起こってしまって、怒った如海法師が、
「恐れながら申し上げます。道抗法師様は海賊と内通しています。どうか捕縛して下さい。」
等と云う事実無根のことを役所に密告し、道抗法師様はもちろん、栄叡法師様と普照法師様まで官憲に捕縛されてしまわれたのです。しかし李林甫兄弟からの手紙を見せると誤解であることが判明し、四ヶ月後自由放免されたのでした。と同時に、密告が嘘であることが判明した如海法師は、処罰を受けて還俗させられた上杖で打たれること六十、さらに本籍地へ送還されたので御座います。こうして一度目の渡航計画は失敗に終わったのです。なおこれは後で分ったことですが、密かに如海と志を通じていた霊祐法師が、この時道抗法師様を毒殺し、我らには、
「道抗法師様は、我らに迷惑を掛けたから消える、と言い残して去っておしまいになられました。」
と告げたのでした。我らは、鑑真和上様よりも年配で徳もある霊祐法師がその様なことをしているとは夢にも思わず、その言葉をそのまま信じてしまったのです。
 二度目は釈放後すぐに実行されたので御座います。銭八十貫で軍用船を一隻求め、同行者百八十五人で、冬十二月に出発したのでした。しかし激しい風と波に見舞われ、唐の国を出ることも出来ずに遭難し、唐の役人に救助されたそうに御座います。そして越州の阿育王寺(あいくおうじ)と云う所に留められている内に、一行の存在が知れ渡ってしまい、その為還俗した如海がいつのまにか舞い戻って来ていて、鑑真和上様一行の居場所も知られてしまったのでした。それでまとめ役の栄叡法師様を逆恨みして、
「栄叡法師が、鑑真和上様をそそのかして倭へ密航しようとしています。」
と、如海は州の役人に密告し、山陰県の役人に栄叡法師様が捕縛されてしまわれてしまったのです。しかし、たまたま病気に罹ったこと利用して逃げ出してしまわれました。この時、三回目の渡航計画があったのですが、何も実行しない内に頓挫してしまったのです。
 それから、第四回目の渡航計画が立てられました。それはお弟子の一人に福州まで船を買いにやらせ、そこから渡航しようとなされたことで御座います。それで一行は福州へと向かったのですが、またも如海が留守を守っていたお弟子の霊祐法師を通じて官憲に通報させましたので、温州(うんしゅう)近くの禅林寺で拘束されて越州に戻されてしまったのでした。霊祐法師は和上様に深く謝意を示し、毎日の様に謝り、毎晩八時頃から朝の四時まで立ったままでそれが六十日間続いたので、ついに許されたのです。しかしこれも和上様を安心させる為の演技で、霊祐法師は実は如海とその黒幕の道士、呉?(ごいん)(死んだ司馬承禎の弟子)とつながっていたのでした。呉?は密かに玄宗皇帝からの命を受け、鑑真和上様が日本に渡るのを妨害していたので御座います。これは、皇帝の鑑真和上様を唐の国が失うことを恐れての行動でした。度重なる暴風雨も、全て呉?の祈祷によるものだったのです。
 それから三年経った、唐の年号で天宝七載(日本の年号で天平二〇年、西暦七四八年)、鑑真和上様が当時いらっしゃった揚州崇福寺に栄叡法師様と普照法師様がいらっしゃり、再び日本に渡ることを懇願したので御座います。鑑真和上様はこれを快諾、船や人員や荷物を用意し、揚州を船出したのでした。ところが再び暴風雨に見舞われ、海南島に漂着してしまったので御座います。それから数年間各地を巡礼し、ようやく揚州へと戻ってこられたのでした。