一縷の望(秦氏遣唐使物語)
さて遣唐使が去って井真成様が死に、阿倍仲麻呂様こと朝衡様は、栄叡(えいえい)法師様と普照法師様はいるもののかの僧達とは係わりがありませんでしたから、実質的にただ一人異国の地に残されることとなってしまうのです。その時朝衡様の属する唐の朝廷は、宰相の李林甫様の時代で御座いました。しかし、かの人があまりに優秀だったせいか、この頃から玄宗皇帝陛下は政治に飽き、全て政治のことをかの人任せになっていったので御座います。この頃既に司馬承禎様の働きかけで高力士様が動き、楊玉環と云う女性が陛下の息子の寿王瑁(ぼう)様の女官となっていましたが、実際には寿王妃でありました。楊玉環様この時十七歳と伝えられています。開元二八(西暦七四〇)年、事実上の寿王妃でありながら、楊玉環様はこの年、長安郊外の離宮驪山(りざん)の温泉宮に召されて、女道士楊太真と号することとなったので御座います。しかしこれは表向きの話で、実際は父親である玄宗にかの女性と初めて目通りされた時、陛下の眼の輝きを見逃さなかった高力士様が、その愛人とするべく画策した結果なのです。つまり休養すると称し、陛下と楊玉環様を密かに会わせたのでした。高力士様の目論見は見事当たり、政治に飽きた陛下は楊太真様の妖しい魅力に狂い、何と息子の嫁を横取りすると云う暴挙に出てしまったので御座います。幸い寿王瑁様は物に執着しない性格で、事を荒立てることも無かったのでした。ついで天宝四戴(さい)(西暦七四五年)正式に貴妃(妻)となり、楊貴妃となったので御座います。かつての名君も六十歳の還暦となり、楊貴妃様二六歳の時に御座いました。皇帝の寵愛の恩典は当然その一族にも及び、まず亡き父親に大尉斉国公の位が追贈されたのを始めとして、母親は涼国夫人に封じられ、兄は鴻臚(こうろ)卿(きょう)となり、三人の姉も国君夫人の礼遇を与えられ、後宮への出入り自由となったので御座います。伯父は光禄大夫となり、従兄まで昇進し、中でも有名な楊国忠様は、楊貴妃と遠縁であるにも関わらず一番出世をし、宰相にまでなられたのでした。
こうした楊一族への偏重した人事は、楊貴妃様自身への妬みの種となっていったのです。例えばこんなことがありました。貴妃様は一度旬の茘(らい)枝(ち)を食された時、生まれて初めて食されたその味に魅了され、何気なく陛下に、
「こんなおいしい食べ物は食したことが御座いません。出来ればもっと欲しゅう御座います。」
と、強請ってしまったのです。何も知らない彼女は、まさかそれが百五十里(約六百キロ)離れた華南から運ばれる貴重な物だとは知る由もありません。若い愛人の言葉に何でも答えてあげたい陛下は、
「良いぞ。良いぞ。そんなに気に入ったのなら、毎日食べさせてやろう。」
「嬉しゅう御座います。」
と事も無げに承知なさってしまったのです。さあ、それからが大変でした。初夏の三月(みつき)しか採れない腐りやすいこの実を都の長安に運ぶ為、早馬が何頭も乗り継がれ、時には馬も元より人さえも命を絶つことにまでなってしまったのでした。もちろん、それは陛下と貴妃様の耳に入ること無く、ただ楊貴妃様に対する憎しみが増していってしまったのです。
ところでお気付きの方もいらっしゃったかとも思われますが、この年の前年から、玄宗皇帝は「年」を「載」とすることを定められたのでした。これはこの年、神器「大極」の奉納されたのを記念されたものなのです。「載」は北斗七星を意味し、「大極」は北極星であり、天帝強いては皇帝を表します。北斗七星は北極星の乗り物を意味し、それを保護する役割を致します。そこで陛下は、「年」を「載」と変えられ、皇帝である自分に縁起を担がれたのでした。しかしこの改定は、「楊貴妃」と云う稀代の女性の出現を暗示していたのかもしれません。
一方朝衡様は、皇帝と楊貴妃様を中心とする梨園に集まる文化人の方々、詩人の李白様や杜甫様、王維様らと交流し、危うげな夢の様な宴に参加していたので御座います。中心が堕落すれば阿臣が蔓延るのが常ではありますが、この時も例外では無く、吉備真備様の唐での妻である阿史徳様の兄である軋犖山(あつらくさん)改め安禄山様は、開元年間の終わり頃から玄宗皇帝陛下の梨園に出没し、体重三百五十斤(二百キロ以上)で身軽に踊り、六か国語を自由に操り、時に赤子の格好をしてまで楊貴妃様に取りいったそうに御座います。元々李林甫宰相の引き立てで見出された彼でしたが、三つの州の節度使を兼ねる程になられますと、今度は楊国忠様と組んで李林甫様を追い落としてしまわれたのでした。さらに今度は楊国忠様との権力争いの末、ついに三国の節度使の兵を使い、部下の史思明様と共に反乱を起こしたので御座います。それが調度新たな遣唐使が唐を訪れた三年後の、中国の暦で天宝十四載(西暦七五五年)年十一月のことで、いわゆるこれが安史の乱の始まりで御座いました。
ところで、隆尊法師様の提案で共にこの前の遣唐使船で海を渡って来て、朝衡様同様異国に残った栄叡法師様と普照法師様のその後について、お話しとう御座います。ですので、ここからのお話は日本へ戻って来た普照法師様から伝え聞いたお話なのです。唐の暦で開元二二(日本の暦で天平六、西暦七三四)年にここ唐に着いてから、九年の月日をただ勉強の日々に費やしていたお二人は、ある日こんなことを話し合ったのでした。
「栄叡様、我らはこんな所で自分の勉強ばかりしていて宜しいのでしょうか? 我らがそもそもはるばる唐へ渡って来たのは、伝戒師の資格のある唐僧を日本へ招聘しに来たので無かったでしょうか。」
と普照法師様が思いつめた口調で、まず栄叡法師様に詰め寄られたのです。これに対し栄叡法師様も、次の様に答えられました。
「そうだな。御坊の言う通りだ。それに唐の法律によれば九年間帰国しなかった者は、その戸籍に編入されることになってしまうのだそうだ。こうしてはおられぬ。さっそく行動を起こそう。」
栄叡法師様は最初に隆尊法師様から渡唐の誘いを受けた僧で、いかにも丈夫そうながっしりとした体格であります。普照法師様は、他の寺にまで評判になる程の秀才でしたが、対照的にあまり身体は丈夫な方では無く、いかにも秀才然とした青白い肌の痩せた方でありました。とにかく二人はまず、律宗の大物鑑真和上(わじょう)様のお弟子である長安の道抗法師様にお願いし、日本へ同行してくれるよう説得し、さらに数名の僧を同様に説得したので御座います。また、道抗法師様は時の宰相李林甫様の弟の家僧で、その伝手(つて)を使って、遣唐使船到着前に唐を離れることをを可能にしてしまわれたのでした。
そしてさらに道抗法師様の紹介で、唐の暦で天宝元載(さい)(日本の暦で天平十四年、西暦七四二年)春風の吹く爽やかなある日、揚州の大明寺(だいめいじ)へと行き、ついに鑑真和上様に会えることとなったので御座います。日本の朝廷からの正式な使節と云うことで、大明寺の広い本堂に住職である鑑真和上様とその高弟達が数多く集まっておりました。鑑真和上様はそれ程背は高くありませんが、がっしりとした体格の方で、かなりの高齢です。栄叡法師様は開口一番、
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊