一縷の望(秦氏遣唐使物語)
また年号を変えるの機に七月二日、吉備真備様がかつて教師であられた阿倍内親王様が、お身体の悪い陛下より譲位され、同時に藤原仲麻呂様はついに大納言になられたので御座います。とにかく新しい陛下(考謙天皇)とその母である光明皇后陛下の覚え目出度く、この後も仲麻呂様は出世を続けるのでした。光明皇后陛下は新たに皇后宮を紫微中台としてその組織を強化し、早速八月十日、その紫微令(長官)を仲麻呂様に兼任させたので御座います。
翌年の天平勝宝四(西暦七五二)年、ようやくお許しが出て、遣唐使船が出ることとなりました。遣唐大使に北家の藤原清河様(藤原小黒麻呂の伯父)、副使に大伴古麻呂様と吉備真備様が任じられ、留学生(るがくしょう)にあの藤原仲麻呂様の六子刷(よし)雄(お)様も付いていらしたのです。
一方嶋麻呂の弔いを終え、良く晴れた日に葛野の我が家に戻った私は、旅の途中で元正天皇陛下の崩御の報を受けたのでした。思わず眼を閉じた私の瞼の裏に、初めて日本に渡って来た当初より、気の病を秦澄大和尚様と共に調伏して差し上げ、最後に麝香を献上したあの雪の日の思い出がまるで走馬灯の様に駆け巡ったのです。あの年齢とは無縁な美しい玉願を、もう二度と目にすることは出来ぬかと思い、思わず熱いものが込み上げて来るのでした。
「陛下、この朝元もまもなくお側に参るかもしれませんぞ。」
と馬の上に揺られながら片腕で左胸を抑え、誰とも無く私は呟いていたのでした。医者である私には、自分の寿命位分っていたのです。
我が家の門の所まで着くと、元気の良い少年がこちらを見ずに走って来ていきなりぶつかってきたのでした。良家の者らしい少年は、
「失敬!」
とやや横柄に大声で言ったのです。すると後ろの方から声がして、
「皇子様、私のお爺様ですぞ。お爺様お帰りなさい。」
と言っているのを見ると、元服前の種継と甥の菅継少年でありました。私は、
「うむ種継、菅継、留守番御苦労だった。ところでこちらはどなた様なのかな。」
と言うと、種継同様大柄な少年は、種継に言われていささか気まり悪そうに、
「これは爺々様、失礼致しました。私は高野の和(やまと)氏から来た山部(やまべ)(後の桓武天皇)と申します。」
と言うと、父親の清成様よりも祖父である私の若い頃に容貌が瓜二つの種継と、こちらは父親の綱手にそっくりな従弟の菅継が、息を切らせながら追いついたのです。この菅継の名は種継からきているのですが、前にも述べました様にこの種継は私自ら名付けた物なのでした。その由来は、我が秦氏の子種を継ぐ者と云う意味で、それは本人にも普段から言い聞かせていることでもあったのです。少々露骨な名ではありました。しかし父親の清成様亡き後の秦氏一族の期待が、それだけその孫に集められていた言えるのです。種継は、こう続けました。
「皇子様は母上の和新笠(やまとのにいがさ)(後の高野新笠)様に連れられて、お爺々様に学問を学びに参ったのです。」
良く見ると、切れ長の大きな目して彫りの深い山部王様は、それを受けてさらに続けました。
「はい、宜しくお願い致します。本来父(この時白壁(しらかべ)王(おう)、後の光仁(こうにん)天皇)がご挨拶に参らねばならぬのですが、父はその朝から安い白酒を飲み、それが切れると糟湯酒(酒粕を湯で溶かした物)まで飲み出す程飲んだくれておりまして、昨夜今日こちらにお邪魔することは申し上げておいた筈なのですが、それで母と共に参ったのです。あんな父では現世での栄華など求めようもありませんから、私は元服したら大学寮に入り、官僚の道での出世を目指す積りなのです。それで都一の学識を誇るこちらに、いや正規の侍講(家庭教師)
は費用がかかる故、いや失礼、親友の種継にお爺々様の話を聞き及び、こうして入門するべく参りました。どうだ、種継、上手く言えただろう。」
「いえ、大分失礼なことを言っていたかと存じますが…。」
と種継が答えると、私は、
「いやいや、生きの良い若者の卒直な物言いは聞いていて気持ちが良い。公務(主計頭)も休養中で暇なので、退屈していたところじゃ。明日からでもさっそく共に学ぼうぞ。」
と言っている所に、話にも出ていた和新笠様が馬に乗って来たらしく狩衣を着て、顔色の悪い痩せた青年と共に舘の中から出て来て声を掛けられてきました。和新笠様は皇子様と良く似た切れ長の眼をした瓜実顔の美しい方で、どこか先頃亡くなられた元正上皇陛下を思わせる方でした。
「これは朝元様、お帰りなさいませ。今日お帰りになると種継の方より聞き及びまして、居ても立ってもいられずにこうして尋ねてきてしまいました。着いてみると、まだお帰りでは無いと知って出直そうかとも思ったのですが、山部が種継や菅継と遊び始めてしまいましたので、帰るに帰れず、こうしてお待ちしていたのです。失礼をお詫び申し上げます。」
「いえ、その様な細かいこと、お気になさいますな。私の様な者で良ければ、いつでもお役に立とうかと思います。それに言って下されば、こちらからそちらの舘にお訪ねしようものを。」
「いえ、身体の不調で宮仕えを休まれている朝元様に、その様な御面倒をお掛けする訳には参りませぬ。それに馬どころか歩いてでも通える程近いのですから、山部にはこちらに通わせることとします。それから後ろに控えておりますのは、同じ式家の雄田麻呂(後の百川(ももかわ))と申しまして、こちらの家の場所をご存知だとか云うことで、今日は私の馬を引いて道案内を頼みまして御座います。」
和新笠様にこう紹介されても、青年は何も言わずに頭を下げ、無言のまま少年達を促し
て連れてその場を離れてしまったのでした。紹介した新笠様の方が決まりが悪くおなりになってしまい、こう言い訳されたのです。
「失礼なのをお詫び致します。雄田麻呂は宇合様の六男なのですが、少年の時から父親の顔も知らず、母親の久米若女様は石上乙麻呂(いそのかみのおつまろ)様との関係を噂され、流罪となってしまった
ので御座います。と申しますのは、乙麻呂様の姉は宇合様の最初の妻でもあり、宇合様の次男の宿奈麻呂(後の藤原良継)様の母上でも御座います。この様な縁のある者同士の関係と云うことで罪を問われたのですが、これは、豌豆瘡の流行で朝廷の高官が数多く倒れられ、参議に出世しそうだった乙麻呂様を陥れる為の反藤原系貴族の陰謀による冤罪だったのです。しかし、当時まだ幼かった雄田麻呂は深く傷つき、あの様に誰とも打ち解けぬ性格となってしまったので御座います。もっとも、周囲の者はそんな雄田麻呂に気を使い、次男の宿奈麻呂様や北家の永手様も何かとかの方を可愛がり、年下の山部まで気を使って、機会を見つけてはこうして外に連れ出しているのです。」
頼みもしないのに長々と細かい事情をお話になる新笠様を置いて、雄田麻呂青年は三人の少年を連れて私達と離れて行ってしまい、ただ声だけがこう言っているのがかすかに聞
こえてきたのでした。最初に話し出したのは、どうやら菅継の甲高い声の様です。
「皇子様、御爺々様が無事お帰りになったのですから、今日は弥勒様の祭で御座いますぞ。その時捧げられる牛の生贄は御禁制ですが、大層おいしう御座いますぞ。」
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊