一縷の望(秦氏遣唐使物語)
「おいこそぁ丸子嶋足、陸奥一の荒武者っし。おいこそぁと思う者さ一騎討ちするべ。いざ参るっす。」
と名乗りを上げたのです。すると、こちらからは国栖赤檮がいつの間にやら前に進み出て、
「我こそは、国栖の民の中でその人有りと唄われた国栖赤檮なり。嶋足様とは相手に取って不足無し。いざ尋常に勝負、勝負。」
と名乗りを挙げ、抜刀して斬りかかったのです。それに対し嶋足は、言葉を返さずに同じく赤檮に蕨手刀(わらびでとう)(陸奥の刀)を振りかざして斬り掛かり、それを合図とする様に両軍全員
が襲い掛かったのでした。本来呪禁師は体術を得意とする者なので、少しばかりの不利などものともせずに斬り掛かってきたので御座いました。しかし両軍が跳び掛かるのと同時に、国栖調子麻呂の放った矢が嶋足様目掛けて飛んで来たのです。かの方はそれを避けようとした刹那、調子麻呂の鶻の甲斐もまた顔目掛けて飛んで来たので、それが気になっている隙に、矢はその利き腕の肩に突き刺さってしまったのです。嶋足様が、
「うっ。」
と唸って肩を押さえるのと同時に、赤檮が嶋足の太刀を払いのけたのでした。赤檮がここぞとばかりに太刀を振り上げたその瞬間、金色の狐が嶋足様の襟首を咥え、空高く舞い上がったのです。その金色の狐は何と尾が九つもあったのですが、あっと云う間に空の彼方へ消えたので御座いました。もちろん、甲斐がすかさずその後を追ったのです。しかしかの鶻は哀れ狐の牙に掛かって、噛み殺されてしまったのでした。
「甲斐!」
と叫ぶ調子麻呂の絶叫も虚しく、死んだ鶻を口から吐き出しながら狐は、口を動かさぬままこんなことを赤檮の心に告げたのです。
「こんな所で嶋足様を死なす訳にはいかぬ。この男は、まだまだ面白いことをやってくれそうなのでな。」
一方泰澄大和尚様達の方は、まず臥行者様、浄定行者様が空から地上に飛び降り、広足
の周りの十二人の呪禁士達に襲い掛かり、岩梨別乎麻呂(いわなしわけのきみこまろ)様とその息子の清麻呂様、そして
矢を放ち終えて素早く太刀を抜いた調子麻呂が加わって、乱戦となったので御座います。そんな中広足方の一人が臥行者様、浄定行者様のお二人に向かって、太刀を持ったままこう名乗りを挙げたのでした。
「臥、浄定、久しぶりだな。我こそは物部蛇麻呂なり。ここで白山での二度に渡る借りを
返させてもらうぞ。」
これに対し浄定行者様は、こう答えたのでした。
「ほう、あの賊はお主(ぬし)だったのか。あの時は取り逃がしたが、今日は決着が付くまで闘おうぞ。」
しかし浄定行者様が斬り掛かった所で、中空に浮いたままだった泰澄大和尚様の「天狗教」が終わり、最期に、
「おんあろまやてんぐすまんきそわか、おんひらひらけん、ひらけんのうそわか。」
と唱え終わると、十二人の呪禁士の内十一人が吹っ飛んで、そのまま息絶えたのでした。
物部蛇麻呂だけは、自ら後ろに飛び退いて術を防ぎ、同時に口から大蛇を吐いて応戦したのですが、それを見越した臥行者様に間髪入れず錫杖で襲いかかられ、蛇が打ちすえられている間に、何とかそれを太刀で防げたのです。しかし、今度は浄定行者様が長い髪を振り乱しての錫杖を突いて来ましたので、さすがにそれは受けきれず、口から血を吐いて息絶えたのでした。
その間に吉備真備様は詠唱を続けていらっしゃいましたが、韓国連広足が右手を開いて真備様の方へ真っ直ぐ突き出しなさると、右腕がみるみる内に伸び、しかも大きくなって真備様を掴もうとされたので御座います。真備様はすぐさまそれに気付くと、詠唱を止めて護身剣を抜き放ち、伸びてきた巨大な右腕を両断されたのでした。韓国連広足が一瞬怯んだ隙に、今度は破敵剣を広足目掛けて投げつけたので御座います。さすがの広足もそれをよけ切れずに胸で受け、断末魔の叫びを上げてその場に倒れたのでした。
また岩梨別清麻呂様は、吉備真備様と韓国連広足のこの戦いを目の当たりにし、自身も戦いながら深く感銘していたのです。
「真備様は何と凄いお方じゃ。この戦いが終わったら父上にあのお方を紹介してもらい、是が非でも弟子にしてもらうんじゃ。」
国栖赤檮がそこで乱戦に加わり、ようやく五分五分となったその時、突然、大勢の犬の
遠吠えが辺りに響き渡り、黒髪を靡(なび)かせた贈唹君多理志佐(そおのきみたりしさ)様に率いられた隼人が二十人ばかり、建物の背後から呪禁士達に襲いかかったので御座います。
「おまはんら、堪えきれず加勢に来もうした。存分に使ってたもんせ。」
さしもの精鋭も総崩れとなり、一人残らず打ち取られたのでした。
「これで呪禁寮も終わりですな。」
と浄定行者様が言いなさると、臥行者様がそれに答えられて、
「呪禁寮はな。だが、道嶋嶋足は取り逃がした。次は陸奥だ。」
と仰られたので御座います。吉備真備様が、
「皆様、ご協力感謝致す。玄ぼうも兜率天(あの世)で喜んでいよう。」
一同は誰ともなく勝鬨(かちどき)を挙げ、こうして韓国連広足との長い抗争に終止符が打たれたのです。こうした韓国広足との抗争は、言ってみれば蝦夷や隼人との抗争に相通ずるものだったのかもしれません。元々我らと彼等は同じ仲間であった筈なのです。つまり、そもそも私が帰国の際、藤原宇合さまと近付いたことを切っ掛けにして、中央の朝廷に近付く者と、智謀の蝦夷や隼人や物部に近い言ってみれば渡来人に近い、日本に溶け込まぬ者とに巨大な秦一族が別れてしまったと言えましょう。これは元々我ら大陸沿いに朝鮮半島に移住して来た者と、海を使って半島に直接着た者の対立が、ここ日本で表面化してしまったのです。何故なら陸伝いに移住を繰り返してきた者なら、移住先に何とか溶け込もうと云う努力を本能的にしてきたのに対し、海から直接来た者は、元々の民族の風習のままで、そこに溶け込もうと云う努力に抵抗を覚えるだけでなく、そこを自分達流に変えてしまおうと云う抵抗さえ始めてしまうものでしょう。この日本に来て、我ら陸伝いに来た者が藤原を使って中央に接近することによって、余計地方で中央に抵抗している者との差が開き、その利害が対立する所まで行ってしまったのです。この一族同士の争いはこの韓国広足との戦(いくさ)が終わりなのでは無く、まだまだ尾を引くのかもしれません。
話は変わりますが、陛下(聖武天皇)が造ると決めた金色の大仏を造成するとなれば、
大量の黄金が必要となって参ります。陛下と朝廷は当初、それを唐から輸入したいとまた遣唐使の派遣を企画してその人材も決めていたのですが、出発をぐずぐずしている内に、
陸奥で金が見つかったことが分り、取りあえず切羽詰まった渡唐の理由も無くなり、とうとう中止になってしまうと云う事が御座いました。その陸奥の小田郡で金が見つかった、
と国守百済敬福(くだらのきょうぶく)様が報告なされたのは、行基大僧正の亡くなられた天平勝宝元(七四九)
年の二月二二日のことで御座います。この年は、年号まで宝が見つかったことを記念して
「勝宝」とされたのでした。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊