一縷の望(秦氏遣唐使物語)
一方恭仁京の造成を負担して従四位下にまで官位を上げたことで、一躍有名人となった嶋麻呂は遷都中止が決定した後、夭逝された北家の藤原鳥養様一家に取り入り、その息子の小黒麻呂様の庇護者となり、双子の娘の方の屋守の元に婿として通わせることに成功したので御座いました。屋守は後に小黒麻呂様との息子、葛野麻呂(かどのまろ)と云う男の子を出産したのです。その目まぐるしい程の活躍ぶりは、遷都取り止めの報せを聞いた当初、周りも余りに気の毒でどう声を掛けて良いのかも分らない程だったのですが、それがまるで嘘の様な程活動的で、むしろいつもより明るい程で御座いました。そして天平十九年となり三月十日、太秦嶋麻呂は長門守に任ぜられ、はりきって任地へと赴いたのです。この地には、大仏に使われる銅の八幡とは別の大産地長登(ながのぼり)銅山が在りました。嶋麻呂が長門(ながと)守に任じられたのは、恭仁京造成を請け負って丸損してしまったかの方を、有望な職分に回したと云う意味もあるのです。しかし周囲のそうした期待も空しく、明るく振舞っていたのは外目だけだったのでした。今度の長門国(現在の山口県)への赴任の話が持ち上がり、さすがにもう立ち直ったものと安心してしまったことがそもそもの間違いで、六月四日の小雨の降りしきる中、かの人は赴任先の油谷の港の近くの岬で荒れる海へ身を投げて、帰らぬ人となってしまわれたので御座います。遺体も見つからず、明るいかの人しか知らぬ我ら特に私は、亡き牛麻呂様との約束、つまり嶋麻呂を私が守る、と云うことも果たせず、ただただ涙に暮れるばかりなのでした。遺体も探せぬ程の荒い海に身を投げたのは、自害すれば朝廷批判と受け取られ、残された我らに類が及ばぬ様にとの配慮かと思われまする。また自害を禁ずる我らの教えに背くものでもあったからかもしれません。周囲の者には、秦の者は海に還るのだ、と漏らしていたそうで、その言葉が一層涙を誘うばかりで御座いました。
私は翌年、心の臓が時々痛む等の身体の不調から公務(主計頭)の休養を届け、長門国に長男の真成、従者の国栖赤檮と国栖調子麻呂とその娘で嶋麻呂の妻でもある紅花、その子である双子の宅守と屋守、屋守の夫である藤原小黒麻呂様が集(あづ)真(さ)藍(あい)(紫陽花)を持って、命日までまだ後少し間があるのですが、やはり小雨の降りしきる中、亡き人をお参りに行ったのです。それは、葬式も陛下を憚って挙げられなかったその代わりも意味しておりました。皆で花を荒れた海に投げ込み、手を合わせて冥福を祈りました。私は心の中で、
「残された宅守の後見人となり、秦氏の一縷の望は必ず彼に伝えよう。」
と、三十と云う若さで命を絶った嶋麻呂に誓ったので御座います。
太秦嶋麻呂の弔いが終わり、泰澄大和尚様が例によって臥(ふせ)行者様、猿面の浄(じょう)定(じょう)行者様を連れて後からやって来て、さらにこの度は岩梨別乎麻呂(いわなしわけのきみこまろ)様とその一子で成人したばかりの清麻呂(後の和気清麻呂(わけのきよまろ))様が、備前(現在の岡山県)の秦氏の兵力百人程を引き連れて我ら一行と合流したので御座います。私は一行に一礼して、
「大和尚様、岩梨様、御苦労に御座います。途中韓国連広足に気取られませんでしたか。」
と私が尋ねると、大和尚様が仰るには、
「何、拙僧らが平城京に寄った頃には、もはや呪禁寮はもぬけの殻で、先に大宰府に発った様じゃから、拙僧らのことには気が付くまい。」
と言うことで御座いました。また岩梨様は、
「朝元様、お久しゅう御座いますのう。今日は百名程の秦部の方々と、倅も、少し早めに成人させてついて来させたんじゃ。こんな大戦はわしも倅も何せ初めてじゃけん。血沸き、肉躍りますのう。」
と仰ると、真成が驚いてこう尋ねたのでした。
「はっ? 父上、戦(いくさ)とは何のことで御座いますか?」
「ははは。後でゆっくり話してやるからちょっと待て。私の身体が本調子なら、このままここに残って戦に加わりたい所なのだが、私達はこれで都に帰り、赤檮と調子麻呂は秦澄様達について行くのでここでお別れだ。調子麻呂、一同の案内を頼むぞ。」
「かしこまりまして御座います。久しぶりの西海道(九州)で嬉しゅう御座います。あの広嗣様との戦で出来た知り合い、特に妻の実家の方々と再会するのが楽しみです。」
と、鶻の甲斐を再び肩に乗せた調子麻呂は答えて、国栖赤檮と共に備前の秦部の軍に加わったのでした。
ところで都の吉備真備様は、大宰府行きの希望が何故か藤原仲麻呂様の耳に届き、真備様が目障りな仲麻呂様によって、渡りに舟とばかりに早速その希望が叶えられてしまったのです。真備様は、左大臣(橘諸兄)様がおろおろしている内に、天平二0(七四八)年正月十日、筑前守に任命され、妻を残して三人の弟達と共に何やらいそいそと任地へ向かったので御座いました。そして西海道(九州)に着いてからは任地へ行かず、玄ぼう法師様の胴塚のある観世音寺へと真っ直ぐに向かわれたのです。むろん、我らの行動と調子を合わせての参拝で御座いました。真備様が両腰に破敵剣、護身剣の二刀を下げ、三人の弟、乙吉備(おときび)様、真事(まこと)様、広(ひろ)様と共に自分は両手で抜刀して寺へ着かれたのです。この兄弟達はまるで真備様と似ておらず学問の素養は無いのですが、その代わりかの方には無い武の才能持っていたのでした。薄暗く曇った空の下、寺の山門を潜ると観世音寺の本堂の入り口の前、玄ぼう法師様の時と同じ様に藻が立っております。それを見つけた一行は、すぐさま御身内の三名が真備様の回りを固めたかと思うと、かの方自身は大音声でこう叫んだのでした。
「藻、遣唐船で別れて以来じゃのう。泰澄様から聞いてもう知っておるぞ。お前は妖力を
失って何も出来ぬ筈じゃとな。大方、韓国連広足の存在から眼を逸らせるだけの為にそこに立っているのであろう。広足、もう何もかも分っているぞ。姿を現せ。」
話の途中で秦澄大和尚様と臥行者様、浄定行者様が、飛行術で中空を鉢に乗って跳んで現れたので御座います。また真備様の話が終わった途端、がたん、と云う大きな音と共に寺の本堂の入り口が両側に開き、韓国連広足が真ん中から現れ、その十二人の部下達が横からわらわらと出て来て、広足の左右を固め、さらに左右の本堂の端からは、十二人の部下と思われる者達が、藻を囲む様に六十人程武装して抜き身のまま出て来たので御座います。広足側の兵が勢揃いすると、山門の中に備前から連れて来た百人程の秦部の歩兵が現れたのでした。広い境内も、さすがに両軍の兵で一杯になったので御座います。広足が返事をしますことには、
「お主ら新羅がいる限り、我が百済の呪禁寮はお仕舞いなのじゃ。ここで今までの借りを返させてもらおうぞ。」
と云い終わった後で、左右に眼を動かしたので御座います。それを見た真備様は、笑いながらこう仰ったのでした。
「ははは、広足よ。こちらこそ玄ぼうの仇、ここで取らせてもらうぞ。それに何を探しておる。隼人の援軍なら来ぬぞ。わしらへの加勢も出来ぬが、お主らの一党へも加わらぬと、三巫女様に約定を取りつけておるのじゃ。」
とその時、藻を後ろに下がらせて一人の男が前に進み出て、
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊