一縷の望(秦氏遣唐使物語)
そして六月十八日、普請中の観世音寺に着いてみると、昼間だと云うのに空は曇っていて辺りは薄暗く異様な空気に包まれ、ふと見ると入口の山門の所に少女が一人手招きをしています。近寄って良く見てみると、忘れもしないあの藻(みくず)でした。玄ぼう法師様が急いで印を組み、眼を閉じて呪文を唱えようとされると、異様な曇り空から音も無く巨大な腕が伸びて来て、少女に集中して気付かぬ玄ぼう法師様の首をつかんで雲の中へ浚(さら)っていったので御座います。回りの従者があっと驚いていると、空の上から首の無い玄ぼう法師様の身体が降ってきて、頭はとうとう見つからなかったのでした。後日、頭のみが興福寺(藤原氏の菩提寺)に転がっているのを隆尊法師様が見つけられたのです。人々は、玄ぼう法師様に恨みを持った藤原広嗣様の怨霊の仕業と恐れたそうに御座います。隆尊法師様は良弁(ろうべん)法師様と相談して、興福寺と東大寺の傍(そば)に頭塔(ずとう)(土塔)を良弁法師様の弟子の実忠法師様に作らせ、手厚く葬ったのでした。この事件に対し、当時吉備と云う姓を賜っていた下道真備様は、左大臣(橘諸兄)様にこう申し出られたのです。
「玄ぼうの敵を討ちに、大宰府へ行きとう御座います。」
突然の申し出に、当時太宰師を兼ねておりました左大臣様も当惑なされながら、
「今そちを失うわけには行かぬ。気持ちは分らぬ訳では無いが、それでは藤原の思う壺じゃ。頭に置いておく故、しばし待て。」
と仰せに御座いました。そこで吉備真備(かつての下道真備)様は、一旦は引き下がったのです。
翌年(天平十九)年、さらに悲しい出来事が続きました。まずは二月二日、行基大僧正様
がお建てになり、秦氏の寺史乙麿(てらのふひとおとまろ)様が資金を出した奈良の菅原寺でかの僧がお倒れになってしまったのでした。行基大僧正様は、そのまま帰らぬ人と成られたので御座います。たまたまかの人をお尋ねになっていらっしゃった泰澄大和尚(かつての法澄) 様は、その御遺言をお聞きになることが出来たのでした。
「拙僧はもう駄目だ。後のこと、我らの束ねを泰澄大和尚に頼みたいのだ。」
「何を気弱なことを申されますか。これしきの病、すぐ直りまする。」
「良いか、我らの束ねに大切なことは色々とあるが、まずは自らの後継者を見つけることじゃ。残念ながら、そなたの後継者は今の所見当たらぬ。良いな。何としても後継者を探し出すのだ。」
「それでは一つだけ教えて下され。あの大仏様に行基大僧正様が肩入れなさったのは何故なので御座いますか? 大仏様とは一体何なのですか?」
誰しも一度は不思議なことと頭を捻られたかと存じますが、大仏様は釈迦仏様では無く、盧舎那(大日如来)仏様なので御座います。これを、例え華厳経が蘆舎那様はお釈迦様の化身だと言ったり、その逆だとか申したりして誤魔化そうとも、お釈迦様は実在の人物であり、盧舎那様はそうでは無いことを考え合わせれば、明らかにそれは矛盾する教えであると誰もが気づかれる筈なのです。まして国家の威信を賭けて大仏様を作ると言うなら、まずは何をおいても釈迦仏様を作るべきなのではないでしょうか。この問は泰澄大和尚様ならずとも、誰か答えられる人に聞いてみたい問ではあるかと思われます。
「そもそも大日如来様とはお釈迦様の変じたお姿と言ってきたが、実はその逆で、お釈迦
様が大日如来様の化身の一つであると云う極めて不遜な考え方なのじゃ。大日如来様を意味する毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)様は目に見えぬものなれば、その眼に見えぬものを表現する為に、あの途轍もない大きさの大仏様が必要であった。あれを、毘盧遮那仏様を現世に現わした、それよりも偉大なものとして摩訶毘盧遮那仏様と称しているが、本当の正体は拝火教の主神(アフラ・マズダ)であり、さらに言えば黄金の牛、蚩尤(しゆう)様との神仏習合のお姿なのじゃ。新羅より日本に渡った名前は素戔男(すさのお)様と言った方が分るじゃろう。あれは我らの信じる神の一人の名を隠しておったのじゃ。またあれは、お主は知らぬかもしれぬが、これから完成に近付けば、水銀(みずがね)や銅(あかがね)の毒で多くの秦氏の鋳物師が命を落とすじゃろう。むろん、奴等もそれは承知の上じゃ。死して尚作りあげんとする奴らの怨念が蓄積され、大仏は巨大な思念の塊となる。そして我らの術の増幅の役目を果たしてくれるのじゃ。あれさえあれば、我らの一の術も十の術となる。大日如来様を念じて経を唱えれば、あの大仏様にその術が集まり、力を増幅してくれると云うわけなのじゃ。それとな、実は秦氏にとっては大事な意味があったのじゃ。大仏様を作るには、大変な量の金と銅が必要じゃろう。その金を大仏様に塗りつける時、大量の水銀が必要になるのじゃ。その水銀を丹生氏から商っておるのが秦氏なのじゃ。銅はもちろん秦氏系の八幡神を手向け山八幡として東大寺の側に分社し、八幡の採掘所から大量に得ている。つまり大仏建立は、秦氏にとって大儲けをする良い機会でもあったわけじゃ。心得たか?」
そう言って文殊菩薩の生まれ代わりの行基大僧正様は、泰澄大和尚様の手を取って亡くなられたので御座います。
話は少し遡りますが、天平十七年紫香楽(しがらき)京において、相次ぐ山火事が起こったのでした。付け火は、古来より政策への不満を意味するもので御座います。しかしこれは実は、他の藤原の縁者大部分(式家藤原種継を除く)からの総意として藤原仲麻呂様の命で行われていたことでありました。仲麻呂様は、自分達の勢力の中心である平城京に再び都を戻そうと必死なのです。山火事に加えて地震等の天変地異も偶然頻発してしまったことも有り、これに嫌気がさした陛下(聖武天皇)は、藤原をこれ以上怒らせまいと、仲麻呂様の思惑通りついに平城京に帰っておしまいになってしまわれのでした。そしてそれは、嶋麻呂が全財産を掛けて投資した恭仁(くに)京の都市造成が、全て無駄になることが決まってしまったことを意味するので御座います。また大仏の造成も中止され、平城京に改めて造ることとなってしまったのでした。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊