一縷の望(秦氏遣唐使物語)
天平十六(西暦七四四)年一月十一日のことで御座います。この時の陛下の難波宮行幸の際、その途中の桜井頓宮で同道した安積親王様が脚気になってしまわれたのでした。そこで急遽恭仁京に引き返しますが、容体は少しも回復しません。そこで陛下は行基法師様との約束の事もあり、全ての民の力を結集する為、それまで差別的な扱いを受けていた雑(ざっ)戸(こ)の職人達を、十二日、全面的に良民にされたのでした。その功徳によって、親王様の回復を祈願されたのです。しかしその甲斐も無く、わずか二日後の十三日、親王様は十七歳の若さで亡くなられると云う痛ましい事件が御座いました。
はっきりしたことは分かりませぬが、安積親王様を脚気と称して毒殺した者こそ、誰あろう藤原仲麻呂様と云われております。仲麻呂様はこの時、こう言って高笑いされたそうなのでした。
「はっはっはっはっは。間抜けどもめ、薬師を抱き込んで、脚気の薬の中に脚気を悪化させる薬を仕込んでおいたわ。長年務めていた者だけに、誰も奴を疑ってもおらぬ。これ程うまく行くとは、思いもよらなんだわ。」
その薬師は実は私の手の者で、我らはその者を密かに厳罰に処しましたが、疑いが我らにも及ぶことを恐れ、このことを不問に付してしまったのでした。しかしさすがに良心が咎められ、仲麻呂様が犯人であるとの噂を流したのですが、これを信じてくれる偉い方々は誰もいらっしゃいませんでした。ただ、仲麻呂様の言動は、その死んだ薬師の告げたことから、こうして私に知れたのです。安積親王様は陛下(聖武天皇)と県犬養(あがたのいぬかい)広刀自(のひろとじ)様の皇子で、県犬養広刀自様と橘諸兄様と同じ「橘氏」でいらっしゃいました。また、あの塩焼王様の妻である不破内親王様と姉井上内親王様姉妹の弟でもいらっしゃいます。陛下の唯一の皇子として当然後継者となるべくお方だったのですが、藤原四兄弟が亡くなった直後の天平十(七三八)年、光明皇后陛下の強い提案で、娘の阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)様を立太子(世継に)されてしまわれたので御座います。光明皇后陛下から見れば、安積親王様は自らの母と同じ血筋である筈なのですが、娘の阿倍内親王の方を選んだと云うことであり、そこをまた藤原仲麻呂様に付け込まれて味方に引き込まれたと云う訳なのです。これは偏に、皇后陛下の藤原仲麻呂様可愛さに起因することで御座います。しかし橘諸兄政権となった今、安積親王様こそ正統な後継者と見なすべきだと云う意見が高まりつつあったのでした。ここで冒頭の歌が出て参るので御座います。
あしひきの山さへ光り咲く花の散りぬるごとき我が大君かも
まずこの歌は、安積親王様の内舎人(うどねり)(中務(なかつかさ)省に属する文官。宮中の宿直や雑役に従い、行幸の警護に当たった)であった大伴家持様が、この年の二月三日に詠まれたものに御座います。家持様はこの時三十路を半ば過ぎ、歌人としては有名でありますが、背も高めで体格も良く、鍛えられた四肢を誇っておりました。その目は常に油断なく鋭く光り、若い頃から侮れぬ面構えをしております。歌の意味は、「脚気で足を引きずる様に登った山にある、光り輝く様に桜の花の咲く桜井頓宮で、花の様に散ってしまわれた私の皇子様よ。」と云うものでした。親王様がお亡くなりになられた時はまだ寒く、桜の花はまだ咲いてい無かったことでしょうが、親王様のお命はまさに桜の花の様に儚かったと言えましょう。そう云う意味でこの歌は、この時の一同の悲しみを良く表していると存じます。特に家持様は、親王様の身辺警護をしておりましたので、その口惜しさはひとしおだったと想像出来るのでした。考えてみれば、この方の陰謀の多い生涯の発端は、この時の無念さが原点であった様な気がしてなりません。
因みにこの家持様は、若い時から歌の上手として著名な方なのでした。そこで左大臣となった橘諸兄様が、万(よろず)の言(こと)の葉(は)を集める仕事(万葉集編纂)の後継者と目されていた方なのです。この歌を読んだ後、家持様は桜井頓宮を去ろうとすると、巣から落ちたらしい鷹の雛を見付けたのでした。かの方にはそれが亡くなられた安積親王様の生まれ変わりの様な気がして、大事に持ち帰って大切に育てることとなるのです。鳥(と)狩(がり)(鷹狩)は歌詠みとして高名なかの方の文弱な印象とは異なりますが、実はかの方の以前からの趣味でもあったのでした。かの方はその鷹の雛に『桜井』と名付け、自らの狩りに常に使ったのでした。
ところで天平十八(七四六)年正月、最初に日本に渡って来た時に密かに会われた元正天
皇陛下が、今は甥である現在の陛下(聖武天皇)に譲位され、今は上皇となられた方の局に折から雪が降りましたので、左大臣となった橘諸兄様達と雪掻きをして差し上げたことが御座います。上皇陛下はひどくお喜びになり、作業の終わった者達を集めて酒宴を開いたのでした。そこで全員が和歌を詠むこととなり、とうとう私(秦朝元)の番が回って来たので御座います。参加者は左大臣様を始め、中納言のお二人(藤原豊成・巨勢奈弖麻呂(こせなてまろ))、藤原仲麻呂様を始めとする参議のお二方(他に大伴牛養)等錚々たる方々でしたから、自らの拙い歌を詠み兼ねておりました所、傍(そば)に座っていた左大臣様が助け舟を出され、
「歌が作れなかったら、麝香(高価な香木の一種)を上皇様に献上して償いたまえ。」
と言って下さり、一同大変なお笑い様ではありましたが、結局は拙い自作を披露せずに済んだので御座います。それにしても、やがて血で血を洗う様な激しい争いを繰り広げる方々にも、この様な平和な日々が有ったのでした。その後、本当に麝香を上皇陛下に献上したのですが、三月五日、このことが関係しているのか、私は新たに主計頭(かずえのかみ)(今の税務所長)に任じられたので御座います。
藤原仲麻呂様はこの時点で参議でしたが、この後の天平十八(西暦七四六)年、軍権を握る式部卿に転じるので御座います。またその前の行基大僧正様と陛下の和解に際して、それまで宮中で我が者顔に過ごしていた玄ぼう法師様が、図らずも行基大僧正様にその地位を奪われる形となり、仲麻呂様の差し金で造営中の筑紫観世音寺別当と云う名目で左遷されることとなってしまわれたのでした。光明皇后陛下も、もはや藤原仲麻呂様の意のままでいらっしゃり、何の反対もなされなかったので御座います。皇后陛下の眼には異父弟の橘諸兄様は元より、玄ぼう法師様など映ってはいなかったのでした。筑紫と言えば、玄ぼう法師様達を逆恨みした藤原広嗣様が死んだ所でもあります。
玄ぼう法師様は身も心も打ちひしがれ、まるで別人の様にお痩せになってしまいました。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊