一縷の望(秦氏遣唐使物語)
と、この様な話し合いが一日中なされ、ここに歴史的な合意がなされたので御座います。こうして大仏建立に寄付をした者、材料を集めた者、実際に作った者など、何らかの形でそれに関わった者の数は二百六十万人の上ったと伝えられるのでした。これは日本の人口の半分に当たるかと思われます。ところでお付きの下道真備様は、その会話の間に少しだけ院の外に延豊法師様に呼び出され、次の様な会話が為されたのでした。
「お初にお目に掛かります。行基法師様の弟子の延豊と申します。実は、下道様に秦氏のの同志として内密に御忠告致したき儀があるのです。」
「ほう、御坊も秦氏で御座ったか。して何を教えて頂けるのかな。」
「はい、真備様が唐より正式な陰陽道の知識を持ち帰った以上、呪禁寮の者達とぶつかり合うのはもはや必定。特に現在の典薬頭の韓国連広足様は呪禁寮ご出身。既に手の者を使って我ら仏門の者達とも武力衝突を繰り返し、実力行使も辞さぬ構え。まずは真備様も、この戦いの渦に巻き込まれていることをご覚悟頂きたい。」
真備様はこの言葉にさすがに顔色を変えられ、声を潜めて答えられたのでした。
「心得ました。私と玄ぼうの存在が、各地で物議を醸し出しているのは承知していましたが、まさか藤原広嗣様の他にも呪禁寮まで敵に回しているとは思いもよりませんでした。」
これに対し、延豊宝法師様の話はこう締め括られたのです。
「それについて、もう一つだけ心得ていて頂きたいことが御座います。実は以前我ら秦氏に与する仏門の者が集い、豌豆瘡調伏の折に宮中でも名を馳せられた泰澄大和尚様を、我らの神仏習合信仰の中心となって頂くべく働き掛けたことが御座いました。ところが今述べた韓国広足が、どこからかこのことを知り、泰澄大和尚様を亡き者にしようと襲撃してきたことがあったのです。拙僧が思います所、これはあの時居た誰かが裏切って広足に泰澄大和尚様のことを告げた者がいるとしか思えぬので御座います。あの時いたのは九名。師匠(行基法師)と兄弟子二人と私、そして宮様と故義淵住職様、良弁法師様を抜かせば、残りは二名に御座います。一人は義淵住職様のお弟子の道鏡法師様、同じくお弟子の隆尊法師様。亡くなられた義淵住職様を除いた一応八名の名前を書きとめたものが、ここにあります。どうかこれをお持ちになって、もしもの時の為にお供え下さい。」
真備様が実際この覚書が必要となるのは随分後のこととなるのですが、かの方はこのことを決して忘れず、後にこのことを何度も思い出して、怪しい者は誰だったのか、折につけ考えさせられるので御座いました。
翌年の天平十四(西暦七四二)年、金鐘寺が大和国の国分寺と定められ、これが後の東大寺となったのです。この金鐘寺こそ、良弁法師様がお作りになられたお寺であり、陛下と光明皇后縁(ゆかり)の寺でも御座いました。そもそもその縁と申しますのは神亀五(七二八)年のこと、お二人の初めての子である基皇子(もといのみこ)様が亡くなられ、その菩提を弔う為にこの地に九人の僧を住まわせたのが、この寺の始まりなのです。その九人の内一人が、良弁法師様でいらっしゃいます。また亡くなられた基皇子様とは、例の長屋親王様が呪い殺したと疑った皇子で御座いました。恐らく、長屋親王様を罪無く誅せられたことに対する引け目が、陛下の御心の中に大仏を作ると云うこの時まで残られていたのでありましょう。
ところがその年(天平十四)年の八月十一日、突如として陛下は、
「朕は近江国甲賀郡紫香楽(しがらき)村に行幸する。すぐに離宮を造営せよ。」
と詔されたのです。その後九月四日に一度恭仁京にも戻るのですが、天平十五(西暦七四三)年七月二十六日に再び紫香楽宮に行幸し、十月十五日にはその地で蘆舎那仏(大仏)の造立の詔を出すので御座います。十二月二六日の詔は、
「平城京の大極殿を壊して恭仁京に移す工事を今までやってもらっていたが、この度紫香楽宮を新たに造ることになったので、この恭仁京の工事は中止する。」
と云う常軌を逸したもので御座いました。さらに天平十六年、難波宮に別宮が置かれ、一月一日に会議が行われ、恭仁京と難波宮とどちらが都として良いか、賛否が問われたのです。その結果、恭仁京の賛成者の方がわずかに多かったのですが、難波宮の造成の工事も、また紫香楽宮の工事も続けられたのでした。
話は元の年に戻りまして、天平十四(西暦七四三)年十月十二日、塩焼王様と四人の女儒が拘禁されたので御座います。十七日には女儒が一人加わり、六人とも別々の場所へ流罪となったのでした。私共は塩焼王様と行動を共にし、その女儒を紹介してもいましたので仔細を存じておりますが、塩焼王様は、陛下が行幸を始めた時からの同僚であった秦下改め太秦嶋麻呂も含めて父新田部親王様の舘で酒を酌み交わしていたその時、嶋麻呂の恭仁京への肩入れを知っていたので、再度の遷都に憤っておりました。
「まったく遷都は遊びでは無い。平城京は藤原のもの、恭仁京は右大臣(橘諸兄)様の拠点、どちらにも良い顔をしたくて今度は紫香楽宮にするらしい。冗談では無い。一体いくら費用がかかると思っておるのだ。そしてその土地に人生を賭けた者の気持ちを踏みにじって何が面白いのか。」
嶋麻呂も、
「まあ、まあ。」
となだめておりましたが、この時の話が漏れたのか、あるいは他の場所でも同じ様なことを洩らしていたそうなので、そちらからなのかは分りませぬが、とにかく陛下の政策を侮辱した罪と、五人の女儒を雇っていることも何故か伝わっていて、長屋親王様と似た様な罪に問われたのです。ただ、当時はもう長屋親王様の件は冤罪だと明らかになっていましたし、陛下としても同じ間違いを繰り返したくは無いと云う想いと、妻の松虫改め不破内親王様は陛下の実の妹君と云うこともあり、本人も陛下と同じ天武系と云うことも御座いましてこの程度の処分で済んだのですが、この件は後の事件に尾を引くので御座います。
さて翌年の天平十五(西暦七四四)年十月十九日、陛下は紫香楽宮に行幸なされ、この地に建立場所を変更したので、先頃協力関係となった行基法師様に改めて大仏建立の協力を正式に要請したので御座います。ここで、先に陛下が難波で良弁法師様に教えられた、貴賎を問わぬ知識(福祉精神)による大仏建立がなされることとなったのでした。これも、行基法師様がここ最近政府の依頼した土木工事を気持ち良く行ってきた成果が表れたと言って宜しいかと存じます。そしてその協力に感謝の意を込めて翌年正月、行基法師様を大僧正に任命されたのでした。
ところで遷都を切っ掛けに世に出て来た藤原仲麻呂様が第一の行動を起こされたのは、
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊