一縷の望(秦氏遣唐使物語)
第十章 死
あしひきの山さへ光り咲く花の散りぬるごとき我が大君かも(大伴家持 万葉集所収)
右の歌は、万葉集を作られたお一人でもある大伴家持様の歌です。この歌に纏わるお話は、またその機会に致しとう御座います。
さて出動した騎馬隊を指揮したのは、南家の次男の正五位下藤原仲麻呂様で御座いました。仲麻呂様はこの時三十路でまだまだ若々しく、細面ではありますが、理知的で意志の強そうな逞しく端正な、いかにも異性に好まれそうな顔立ちでした。かの方はこれまで公式には大学寮等で、そして私的には祖父不比等の当代随一の蔵書によって算学(占い)や六韜三略や孫子等の兵書を諳(そら)んじ、また侍講(家庭教師)に正規の様々な学問を叩きこまれていたのです。さらに兵書の中の『孫子』にあった『用間篇』を自ら実践する為、身体を鍛えに鍛え、正規の武術にも磨きを掛けていたのでした(これにより、藤原仲麻呂を忍術の祖とする説もある)。仲麻呂様はこの時前騎兵大将軍を仰せつかっており、任務を追行している時、思わずこう独り言を言っているのを、赤檮(いちい)がたまたま立ち聞きしてしまったのです。
「これは好機だ。競争相手の式家の有力者が自滅し、我ら南家、特に私仲麻呂が世に出る時が来たのだ。このままむざむざ次男として兄豊成の風下に立っているばかりの我では無いわ。この知力、腕力、男としての魅力、胆力の全てを駆使して、必ずこの国の頂点に駆け登ってみせるわ。はあっはあ、はあ、はあ、はあ。」
行幸の行き先は伊勢で、都の留守居には同じく南家の長男の兵部卿兼中衛大将・正四位下の藤原豊成様で、元正太上天皇陛下と光明皇后(かつての安宿媛(あすかべひめ)、光明夫人(ぶにん))陛下、安積(あさか)親王様、その内舎人(うどねり)(中務(なかつかさ)省に属する文官。宮中の宿直や雑役に従い、行幸の警護に当たった) 大伴家持様、さらに御前長官として従四位上の塩焼王様・右大臣(橘諸兄・かつての葛城王)様を伴っての旅で御座いました。塩焼王様の妻は陛下(聖武天皇)の御息女で、松虫(別名不破内親王)様と仰います。松虫様には、井上内親王様と云う姉と安積親王様と云う弟がいらっしゃいます。塩焼親王様の周りには、五人の勇ましく武装した男装の女儒(女の召使)が警備しており、名を子部宿禰小宅女(こべすくねこやけめ)、下(しもの)村(すぐ)主(り)白(しろ)女(め)、川辺朝臣東女(かわべのあそんあずまめ)、名(な)草(くさの)直(あたい)高(たか)根(ね)女(め)、春日朝臣家嗣女(かすがのあそんやかつぐめ)と申します。この者達は、かつて行基道場に通う者でありました。塩焼王様からのたっての願いで私が御世話した者達なのです。と言いますのも、塩焼王様の妻である松虫様は行基法師様の密かな信者でありまして、法師様からもくれぐれも頼まれていたからで御座います。塩焼王様は騎馬に乗り、颯爽と秦氏の騎馬隊を指揮しておりました。その周りには妻の松虫様も男装して付き従い、そのまた回りには男装した五人の女儒達が馬に乗って固めておりました。気の強そうな塩焼王様と、男装してもいかにも男好きそうな松虫様が付き従う姿は、一幅の絵の様に美しいものでありました。
十一月三日、広嗣様の捕縛を知った後も行幸は続けられて結果的には巡幸となり、尾張へ行き、さらに美濃に行き、不破(ふわ)の頓宮(とんぐう)(今の岐阜県関ケ原)に留まりまして御座います。ここで四百名の騎兵は解散し、都に帰還致しました。しかし、陛下は都へは帰りません。十二月六日、右大臣橘諸兄様を先発させ、私ども三人(秦朝元、秦下嶋麻呂、秦赤檮)もその警護の為後を付いていき、右大臣(橘諸兄)様の故郷の整備をさせ、同日陛下も出発されました。十二月十四日、山背国玉井(今の京都府井出町)にお着きになり、翌十五日、同行してきた元正上皇陛下や光明皇后陛下を右大臣様の別荘のある玉井離宮に残し、陛下は先に右大臣様の待つ山(やま)背(しろ)国(のくに)相(さ)楽(がら)郡に行かれ、この地を都と定めたので御座います。これは、まだ女性を迎える内裏の準備を右大臣様が整え終わっていなかったからでありました。翌年(天平十三年)の朝賀は、まだ碌に準備も整っていないこの地(恭仁(くに)京)で行われたのです。十五日には、五位以上の貴族は今月中に恭仁京に移るよう命じられたので御座いました。
ところで行幸と云えば少し話は遡りますが、昨年の広嗣の乱の起こる少し前天平十二(西暦七四〇)年二月七日、陛下は我が秦氏の拠点の一つでもある難波の宮に、冬晴れの日、右大臣様等と共に行かれたことがありました。その地に行く途中、右大臣様に付いて来た
良弁法師様の紹介で河内国大県郡(今の大阪府柏原市)の知識寺に寄られ、当時としては最も大きな黄金の蘆舎那仏を拝したのです。黄金の仏像は、柔らかな陽の光が降り注いで煌びやかに輝き、この世の物とは思えぬ程厳かで美しいお姿でありました。仏像の美しさに見とれている陛下を見て、案内役として同行していた良弁法師様がすかさず次の様に申しました。
「この仏様の尊い所は、その大きなお姿だけでは御座いません。この仏様は、知識衆と呼ばれる寺や仏具を作る匠集団を中心(その大部分は行基や秦氏の関係者)に、民衆が自主的に金を出し合って作ったもので御座います。知識とは、そういう自ら功徳を施す心のことで御座います。例えてみれば、あの行基法師様のような御心なのです。そしてこの仏様には、人々の心を惹きつける魅力があるのです。何故なら華厳経によれば、この蘆舎那(るしゃな)(大日如来)と云う仏は太陽の化身であり、太陽は高貴な者も貧しき者も分け隔てなく照らしてくれまする。まこと、蘆舎那仏は釈迦如来の化身と言えましょう。」
「民草が、自ら作った仏か。」
陛下はそう呟かれ、何事か深く考え込み、輝く黄金の像をもう一度見つめ直したので御座います。良弁法師様はさらに続けます。
「唐へ行った玄ぼう法師によれば、唐の洛陽の近くの龍門の奉先寺には、周の則天武后陛下の作った蘆舎那仏の大石仏があるとか。ですが、本来蘆舎那仏は黄金色に輝くもの。今からでも黄金色に輝く大仏をお作りになれば、それは唐の国でもまだ見ぬものとなりましょう。陛下の仏に対する信心の深さが、三国(日本・唐・天竺)に知れ渡ろうと云うもので御座います。蘆舎那仏なら、地上のお日様の如く日の本の地を千年万年とお守り下さるに違いありませぬ。」
「そうすれば、誰もが待ち望むような世が作れるのであろうか?」
「はい、間違い御座いません。それに、もうすぐいらっしゃるとか言う唐の法師にも、我が国のみ仏への想いが本気であることを見せることと相なりましょう。」
「み仏への想いか?」
いささかしつこく思われたのでしょうか、良弁法師様もそれきり口を噤(つぐ)んだのでした。この時、他の寺も幾つか回られたのですが、この仏を見た時の感動がひどく陛下の御心を動かした様で御座います。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊