一縷の望(秦氏遣唐使物語)
「用など無いわ。実はこの頃都では妙な噂が広まっておってな。その噂によると、広嗣様は西海道(九州で)で龍馬(空飛ぶ馬)を手に入れ、都と大宰府を一日で往復なさっているというのだ。だから都まで一飛びで攻めてくるかもしれぬ、と陛下は怯えておってな。それが原因らしい。だがこのことはここだけの秘密じゃぞ。それからお主は文官故、馬に乗る必要は無いから、安心して兵だけ集めてくれさえすれば良い。」
「いえ、そう言う訳には参りません。勅命なのですから、私もお供させて頂きます。総勢何名位のご予定なので御座いますか?」
「四百騎程の予定だ。依頼しているのは秦忌寸達だけではなく、東西史部(やまとかわちのふひとべ)(文直(ふみのあたえ)と西文(かわちのふみの)首(おびと)の渡来系氏族の総称)にも頼む積りだ。出発はいつになるか分らぬが、至急手配をしておいてくれ。分ったな。」
「はい、承知仕りました。」
と言って朝堂を大隅直様と共に下がると、
「一別以来でごわす。」
と、顔に赤い刺青を入れた大隅様の方から話し掛けて来られたので御座います。
「はい、お久しゅう御座る。ここで会えてちょうど良かった。実は頼みたいことが御座ってな。」
「ほう、何でごわすか。」
「先程も右大臣様(橘諸兄)に申し上げましたが、この謀反は何者かに仕組まれたものに御座います。こんな謀反で死ぬなど以ての外です。私は大隅の三巫女様にすぐに使者を出し、反乱に加わらない様にしてもらう積りで御座います。しかし、我が婿の藤原綱手も使いが来てこれに加わってしまったのです。そこで大隅様、お願いで御座います。もしも綱手と
相対するようなことが御座いましたら、どうか命ばかりはお助け下さい。捕まえても打ち首となるで御座いましょう。どうか密かに隼人で匿って、秦の者にお引き渡し下され。お頼み申す。」
「じゃっち(そうか)、分り申した。確約は出来申さぬが、心掛けておくでごわす。」
「おぉ有難い。それではお耳に入れておきまするが、この謀反を起こしたのは、恐らく韓国連広足。」
「え、あの典薬頭にごわしょうか?」
「そう、奴も必死よ。あの玄ぼう様や真備様のご活躍を見れば、呪禁寮が陰陽寮に吸収さ
れてしまうのも時間の問題だろう。だが、この事は御他言無用に願いまするぞ。大衣の大隅直と見込んでお話申し上げたのですから。」
「そいは分りもんす。」
ところで陛下(聖武天皇)は、この反乱に対し宇合様亡き後最も頼りになる武将を征討担当に任命されたので御座います。それは大野東人(おおのあずまびと)様と仰って、少し前今は亡き藤原の四男麻呂様と共に陸奥の方へ遠征に行かれたりしておりましたが、ちょうど都に帰還して参議となっておりました。東人様は、宇合様と共に蝦夷を討ったこともある名将に御座います。かの方は陛下より持節将軍の任を拝命すると、勅使佐伯常人様と阿倍虫麻呂様を率いて出陣されたのでした。東人将軍の本隊が一万七千人を動員し、佐伯様と阿倍様を先発隊として渡海させ、玄界灘を臨む豊前国(現在の福岡県)の板櫃鎮(いたびつのちん)(要塞・現在の北九州市小倉北区)を攻撃されたのです。一方広嗣様方は、西海道(九州)各国の正規軍一万や豪族の手勢、それに隼人を含んでいました。
一方、使者を頼まれた国栖(くずの)調子(ちょうし)麻呂(まろ)は、黒鶻の甲斐を肩に乗せたまま征討軍より先んじて薩摩に赴き、色取り取りの大輪の菊の花の活けられた韓国宇豆峯神社に三巫女様、つまり比賣(ひめ)様、久米(くめ)様、波豆(はづ)様のお三方が戦勝祈願に集まっているのを見付け、そこへいち早く参上出来たのでした。三巫女様は、どれほど生きてきたのか分らぬ程深く皺を刻まれ、隼人らしい赤を基調とした巫女の装束を身に着けておられます。後に調子麻呂が話した所によりますと、かの方が平伏してお三方の前に出ると、まず一番年齢(とし)の若そうな波豆様が口を開かれたそうなので御座いました。
「きしゃんが、秦の弁正さぁの小倅の使いごわすか?」
「ははぁー、国栖調子麻呂と申します。」
と調子麻呂が答えると、今度は左側に座っていた久米様が仰られました。
「そいで何の用でごわす。」
「はい、この度藤原広嗣様御謀反の兵を挙げられ、隼人もこれに加勢するとのこと。これに対し朝廷は一万七千もの追討軍を出されました。我が主(あるじ)は都の秦一族の頭領にて、お仲間の隼人のことをひどく案じていらっしゃいます。」
「ちょっと待ってたもんせ。」
と、真ん中に座っている比賣様が口を挟まれました。
「追討軍ごわすと。そんではおいらは賊軍でんなかか。それは話ば違いもんそう。おいらは広嗣さぁが逆賊ば討つと聞きもんしたで、お味方したのでごわす。」
「そうじゃき。」
「そうじゃき。」
と左右の巫女様も調子を合わせられました。
「それは事実と違うと存じます。それにこの謀反は仕組まれたものにて、当初広嗣様は御謀反の意志など無かったかと思われます。それが証拠に、大衣の大隅直様は配下の者二十三人の者を引き連れて、追討軍に御参戦なさることになったそうに御座います。このままでは隼人同士戦うこととなってしまいますぞ。」
「そいはもう蒸し返してん詮無き事じゃき。」
と久米様が仰ると、すかさず波豆様がこう仰いました。
「もしきしゃんの言うことが本当なら、すぐに隼人の兵ば引かせねばならぬのでごわすが、今からでは間に合わぬかもしれぬでごわす。」
「いえ、私の言うことがお分りになられますなら、私の足ならば十分間に合うかと存じます。」
すると真ん中の比賣様が、
「そいどん、きしゃんが行ったとて隼人の連中は信じぬでごわそう。どうすれば良か。」
「比賣様の仰ることなら耳を貸すので御座いますか?」
「ばってん、それはそうでごわしょうが。」
「ならば簡単で御座います。比賣様さえ宜しければ、私が背負って戦場までお連れ致しましょう。」
右から、
「正気ごわすか?」
左から、
「比賣さぁはなかなかに重うごわすぞ。」
と言う声が聞こえましたが、真ん中から、
「そいで決まりごわす。調子麻呂とやら、宜しく頼むでごわすぞ。今から参りもんそう。」
右から、
「い、今からでごわすか?」
左から、
「そいどん、今からでも遅過ぎる位ごわす。後の事はおいらに任せ、どうぞいらしてたもんせ。調子麻呂とやら、比賣さぁを宜しゅう頼みもんそう。」
「承知、さっ比賣様、お背中にどうぞ。鶻は良くなれておりますから、ご案じ召されぬよう。」
「う、うむ。それでは皆の衆、後のことは宜しく頼みもんした。」
と言うが早いか、意外と身軽に調子麻呂の背に乗ると、黒鶻を自らの肩に乗せて右手を前方に指差し、
「それでは出発じゃき。」
と仰ったので、
「畏まって御座います。」
と答えて、調子麻呂は板櫃鎮(いたびつのちん)に急いだのでした。
戦場に着くと、明らかに数的に追討軍が不利で攻め込めぬので、板櫃川を挟んでちょうど両軍がにらみ合っている所で御座いました。両者の先鋒には共に隼人の者が居て、まさに一触即発の状況です。すると比賣様が鶻を肩に乗せたまま、こう仰いました。
「舟を出し、川の真ん中に連れていってたもんせ。」
「それは幾らなんでも危なう御座いますぞ。」
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊