一縷の望(秦氏遣唐使物語)
「おぉ玄ぼう、それがまことなら御坊にどれ程感謝しても足りぬ。」
「ははぁ、有難きお言葉。」
そしてその年の暮れ、いよいよ包帯の取れた宮子皇太夫人と、陛下との対面が適ったのです。陛下の喜び様は傍で見ていても嬉しくなってしまいそうで、国中の者が涙したので御座いました。玄ぼう法師様は褒美としてあしぎぬ千匹、真綿千屯、絹糸千?(く)、麻布千端、童子八人を与えられたのです。李密翳の施術のことは秘密でしたので、玄ぼう法師様から褒美を分け与えたそうなのでした。また特に願い出て、童子八人の中に審祥法師様と李密翳、羽栗吉麻呂、翼、翔親子の五人を数に加えて頂いたのです。これで橘諸兄様が右大臣となったのと合わせて、我ら秦氏にとって将に盤石の布陣となったので御座います。
一方下道真備(後の吉備真備)様は、帰国後従五位に列せられたのを皮切りに、大学寮の大学助(すけ)、右衛士督(うえじのかみ)、東宮学士と歴任し、女性で皇太子となられた阿倍内親王(後の孝謙天皇)の学問の師に、玄ぼう法師様と共になられたのです。なおこの時、下道真備様の推薦で、磐梨別乎麻呂(いわなしわけのこまろ)様の娘の広(ひろ)虫(むし)と云う少女を阿倍内親王の女儒(下女)として採用することとなったのでした。真備様がこの時広虫様を推薦できましたのは、実はこの度出世したことを期に大和国の三輪の外れに新居を構え、御家族を呼び寄せ、そのついでに広虫様も上京されたと云う訳なのです。都の近くに自宅を構えたことで、真備様はこの時四十路を超えてはおりましたが、長男泉様・長女由利様・次男枚男(ひらお)様と立て続けにお産まれになるのでした。それはまるで、唐に残してきた阿史徳様と四人の息子達に吊り合いを取られる為の様にさえ思えたのです。
一方私は当時図書頭に任命され、玄ぼう法師様達が唐より持ち帰った膨大な図書、経典類の整理に没頭していたので御座います。
さて、玄ぼう法師様より十一面観音経を授かった法澄様は、その経による病魔退散の法を身につけるべく、あれから夜を眠るのも惜しんで勉強されたそうです。そしてようやく天平九(西暦七三七)年の十二月、ついに豌豆瘡調伏を目的とする憑(よ)り祈祷が、ちょうど玄ぼう法師様の施術後の回復祈祷の最中に執り行われたのでした。場所は、玄ぼう法師様の御好意で海龍王寺の本堂をお貸し頂き、そこの本尊の十一面観音像の目の前に、臥行者様、浄定行者様に手助けをしてもらって行を始められたので御座います。目の前には三角形の炉に護摩が燃え上がり、その横には、芥子、丸香、散香、塗香、?子の実、切花の六種の供物を置き、護摩を燃やす護摩木(苦木の根)も火の近くにあり、越の大徳様は赤い服で南方に座りなさり、独股杵印を結びなさったのです。また安坐して控える浄定行者様に御幣を持たせて目隠しをしてから、時々真言を次の様に唱えながら複雑な十一面観音の印を結ばれたのでした。また傍らでは、臥行者様が法螺(ほら)や錫(しゃく)杖(じょう)・太鼓を鳴らしていたのです。
「オン・ロケイ・ジンバラ・キリク。病魔の正体を憑坐(よりまし)に降ろさせ給え。」
横で苦木の根を火にくべながら法澄様が熱心にお祈りなされていると、臥行者様が、
「あっ憑依しましたぞ。」
とお叫びになったそうに御座います。見ると、憑坐である浄定行者様の様子がおかしく、身体を震わせたり、安坐したまま飛び跳ねたりし始めました。その臀部からは、九つの尾が薄ぼんやりと見え、顔は狐の様な口を窄めた表情となったのです。法澄様は、懐から何やら紙を取り出しながら、こう大声で怒鳴ったのでした。
「見たか、物の怪。お主の正体までは分らぬが、こうして憑坐に閉じ込められたら、もはや逃げられぬぞ。」
すると憑坐である浄定行者様は、聞いたことも無い野太い女の声で苦しげにこう言ったのでした。
「おのれ法澄、私の妖力が万全であったなら、決してお前などに遅れは取らぬものを。」
法澄様は懐から出した「藻(みくず)狐」と書かれた紙を広げると、鞭と呼ばれる棒状の道具でそれを祈りなから何度も叩いたのです。すると取りつかれた浄定行者様は、
「ぎゃー。」
と断末魔であるかの様に絶叫して、その場にぱったりと倒れたのでした。それを見た法澄様は、
「む、これで一安心じゃ。やはり原因は長屋親王様の怨霊の為では無かったか。だが、今より前に蔓延した病まで消すことは出来ぬ。」
と仰ったそうに御座います。
このことを、対面した宮子皇太夫人(こうたいぶにん)様からお聞きになった陛下(聖武天皇)は、法澄様に大和尚位を授けると共に、泰證の号を送られたのですが、
「出来れば證の字では無く、澄と致したく存じます。亡き父安(やす)角(ずみ)の名の読みと同じにし、その後世の菩提を弔うおうと思うのです。」
と仰られましたので、その言葉に感動し、やはり父に死に別れている陛下は涙を流しながら、
「御坊の孝行心、感じ入ったぞ。好きにせい。」
と仰り、それ以来、法澄様は泰(たい)澄(ちょう)大和尚(だいおしょう)様と名乗られることと致しました。ただ、これは後々分ったことではあるのですが、九尾の狐はまだ死んではいなかったのです。しかし、取りあえず疫病を蔓延させる妖力は、泰澄大和尚様の法力を持って調伏された様に御座います。
さて泰澄大和尚様一行は、ここの近くにある頭陀院・同尼院の建設現場に寄り、行基法師様にお会いし、今度のことをご報告してから、白山にお戻りなられたのでした。
第九章 藤原広嗣
この花の一枝(いちよ)のうちに百種(ももくさ)の言(こと)ぞこもれるおほろかにすな(藤原広嗣作 万葉集所収)
この歌は、亡き宇合様の御長男の広嗣様の詠われたもので、意味は、「この花の一枝には様々な意味が込められている。決して疎かにするな。」で御座いましょう。今後の話の展開を考えると、なかなか意味深き歌かと思われます。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊