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一縷の望(秦氏遣唐使物語)

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「いかん、中に入るな。その場で話を聞いてくれ。こうなったら私はもう駄目だ。実は既にもうお主(ぬし)との約束を果たしていて、そこにいる清成はお主の娘の牡丹様とは既に言い交わした仲でな。実は子ももう生まれる予定もあるらしい。私の臨終に免じて、黙っていたことを許して欲しい。それから、そこにいる綱手も婿にやろう。今日このままそなたの舘へ連れてって、清成と牡丹様、綱手と梅様の祝言を上げてくれ。気に食わなかったら、当分そちらに置いてくれるだけでも良い。すまんが四男の田麻呂は自分で相手を見つけ、今はそちらなのだ。六男の雄田麻呂(後の百川)以下の息子はまだ幼過ぎるので、それぞれの母親の実家に娘と共に頼んだ。宜しいか?」
と精一杯大きな声を出して、宇合様が仰るのでした。私は牛麻呂様のことを思い出してもう涙が止まらなくなりながら、何とかこう言ったので御座います。
「私の妻は一度この病に罹っていて、もう二度は罹りません。その妻を置いていきますから、看病させて下さりませ。それから二人の御子息はしかとお預かり致しますから、どうぞご安心を。」
 先程大きな声を出されて疲れたのか、何とか聞こえるだけの声で、
「承知した。忝い。」
と返事が聞こえ、それきり静かになってしまわれたのです。梨花と私は見つめ合いながら
頷き合うと、梨花だけ館の中へ入って行きました。私は妻を一人この館に置き、自ら宇合様の二人の御子息を伴って帰宅したので御座います。この時二人の御子息を改めてまじまじと見たのですが、お二人共いかにも貴公子然とした中肉中背の方でしたが、兄の清成様はいささか線が細く、弟の綱手様は父親に似てがっしりとした方です。久しぶりに父親が帰ってきて、二人の若い男子(おのこ)を連れて来たのですから、娘達は最初戸惑っている様でした。ましてや清成様の方は、牡丹が父親に隠して通っていた筈のお方だったのですから、驚かずにはいられなかったでしょう。しかし私が先の事情を話しますと、日頃から言い聞かせてきた所為か、それからは二人の娘も腹が座った様で、照れる二人の若者に酌などして、出来るだけ和ますように務めたので御座います。私は、若い者達のことが気になって夜も眠れぬかと思いましたが、何時の間にか我が家の懐かしい雰囲気に誘われて深い眠りに付いていたのでした。次の朝、案ずるより産むが易しで、二組の夫婦が恙無く誕生し、亡き牛麻呂様の奥様の白女様に手助けして頂き、少し早いのですが私の予定もありますのでその朝の内に祝いをし、二人の婿を我が家に正式に迎えることとしたのです。今まで特に述べてはきませんでしたが、我が秦一族の長所は財力と武力と呪力と、そして女性達の魅力なのです。今回の様に女性の魅力を使って、これから何度も権力に食い込もうとしていくのでした。
 奈良の都に戻ると、梨花の云うことには既に宇合様は亡くなられたとのことで、さすがに街中で館ごと燃やすわけにはいかず、宇合様だけ許可を得て荼毘に付したのでした。こ
れで、長屋親王様の死より権勢を誇った藤原四兄弟が全員死んでしまい、宮廷で陛下以上に発言力がある光明皇后陛下の異父の弟でもあり、秦氏の仲間の葛城王改め橘諸兄(たちばなもろえ)様が権力を握る時代になったので御座います。橘諸兄様、この時五十路を既に過ぎ、その能力の割には藤原家全盛の時にあってまことに遅咲きではありました。それはつまり、かの方が藤原以外の貴族の代表と目されていたからでもあります。その容貌や物腰は穏やかではありますが、にこやかな顔の裏に計算されつくした思惑と強い意志が隠されておりました。痩せた小さな方ではありますが、その存在感は会う者を圧倒するものがあります。若い頃より秦氏の集いには必ず参加し、極めて秦氏贔屓のこの方が出世為されたことは、我らにとって心強いことこの上無き事なのでした。
 また四兄弟の死によって、それぞれのお子様が若くして残されることとなるのです。長男の武智麻呂様の系統は、その舘が次男の房前様の建物から見て南に位置していたことから南家と呼ばれたのでした。そこには新たに兵部卿となった従四位下の三十路を越えられたばかりの豊成様と民部卿にやがてなる従五位の二歳下の弟の仲麻呂様が年長者としていらっしゃいました。次男の房前様の系統は、先程とは逆に兄の舘から北に住んでいたので北家と呼ばれました。北家には、長男の鳥養(とりかい)様は息子(内一人が小黒麻呂)を二人残して夭逝し、跡目は次男のはまだ二十歳そこそこだった永手様が継がれ、弟にはまだ元服前の魚名様等がいらっしゃいました。三男の宇合様の系統は、宇合様がもっとも相応しい式部卿であった為、式家と呼ばれました。前にも申しました様に息子は七人いらっしゃり、長男の広嗣様は二十歳になったばかりで、この時従五位下に叙爵されたのでした。四男の麻呂様の系統は左右京大夫の職を務めていたことで、京家と呼ばれました。しかし、その長男の浜成様はまだ十代前半で元服もしておらす、この系統は振るわぬまま時が過ぎることとなるのでした。親の四兄弟が同時に死ぬことにより、四家の子孫達は一斉にお家復興
の為の競争となるので御座います。
 さらに藤原四兄弟の死は、意外な事件を引き起こすのでした。それは翌年の天平十(西暦七三八)年七月十日の長屋親王様の事件から九年後、密告したお二人の内漆部造君足が、同僚のやはりかつて長屋親王様に仕えていた大伴子虫と云う者と囲碁を打っていた時のことです。勝負の些細なことで口論となり、子虫が君足を斬り殺したので御座います。その時中富宮処連東人が見てきたことを伝えた話によると、子虫は、
「長屋親王様の仇だ。」
と叫んだそうです。近くにいた自分の耳にも届いた程の大声でした。そして駆けつけてみ
ると、体術の優れている筈の漆部造君足が、どちらかと云うと武術の不得手だった大伴子
虫に何の抵抗も無く斬られる所でした。いや、斬られたと云うよりも、漆部造君足は金縛
りになった様な状態だったそうです。近くに止めに入ろうと立ちあがった者が何人かいま
したが、何故か中に縦長の瞳の呪禁(じゅごん)寮の者も一人混ざっていたそうです。中富宮処連東人の視線を感じると、その者は何か決まり悪そうにその場を立ち去ったのでした。周りにいる者に尋ねました所、彼は呪禁士の物部蛇麻呂と云う者であるそうに御座います。この事件によって、長屋親王様の事件が藤原四兄弟による陰謀であったことが、誰憚る事無く公然と囁かれる様になってしまったのです。
 こうした流行り病による死者の続出に、陛下も大極(だいごく)殿(でん)の高御倉(たかみくら)の上でただこう言っておろおろと嘆くばかりなのでした。
「祟りじゃ。長屋親王が成仏出来ず、四人を祟り殺したのだ。恐ろしや。」
 光明皇后陛下もそんな陛下にどう接すれば分らず、宮子皇太夫人様の所に尋ねてくる玄ぼう法師様に、そのことをいつしか相談する様になったので御座います。
「玄ぼう、もう私はどうしたら良いのか、分らぬのだ。」
「皇后陛下、拙僧にお任せあれ。陛下の長年の宿願であった宮子皇太夫人との面会がもうすぐ出来るようになりまする。さすれば陛下もさぞお喜びになり、悩みなど忘れてしまいましょう。」