一縷の望(秦氏遣唐使物語)
「李密翳様、一別以来で御座います。この度は船が大変なことでしたなあ。やっと日本に着きましたか。私共が御誘いした所為でとんだ目に合わせてしまいました。申し訳御座いません。」
と私が言うと、法澄様も、
「法澄と申す優婆塞で御座います。こちらに控えしは臥行者、浄定行者と申します。お見知りおきを。」
と言って、やはり手を合わせてお辞儀をすると、
「おい、拙僧の時より丁寧だな。ところでお客人、宿をまだお決めでないのなら、ここに泊まると良い、朝元も一緒にな。ただし、李密翳も一緒じゃ、あ奴は少々体臭がきついぞ。」
李密翳は自分のことが話題になっていることも知らず、にこにこと愛想笑いを振り撒いていました。
「それでは翼と翔に部屋を案内させよう。おぉい、翼、翔、お客様を用意していた宿坊にご案内しろ。翔とは先日拙僧の使者として会いましたかな。」
と玄ぼう法師様が怒鳴ると、奥から二人の青年の声が、
「はぁーい。只今。」
と聞こえ、まもなく彼らが現れたのでした。
「この二人は、唐に残してきた阿倍仲麻呂の従者だった羽栗吉麻呂と唐人女との間の子だ。父親の吉麻呂は今料理の下拵えをしていよう。二人とも、客人を宿坊に案内するのだ。良いな。」
「はい、畏まりました。お客様、私達の後に付いて来て下さい。」
先程まで深刻だったその場の雰囲気にそぐわぬ元気な二人に緊張感が解れ、私と法澄様は顔を合わせて笑い合ったので御座います。まったく久しぶりの笑顔で御座いました。
次の日から法澄様は、玄ぼう法師様の持ち帰った経論を審祥法師様の講義を受けつつ勉強を始めたのでした。勿論その合間に、修験道をどうすべきかについても、審祥法師様の方が年下でしたが、次の様な熱い議論をお互い忌憚なく取り交わしたので御座います。
「法澄様、秦氏の山岳修行にも、何か呼び名が必要ではないでしょうか。拙僧の考えました所、この教えは『行』を修めて『験力(げんりき)(神通力)』を得る『修行得験』であり、実際に修行をして験力が実る『実修実験』でも御座います。よってこれらに共通する文字二つを取って、『修験道』と名付けたらいかがでしょう。」
と、ある時審祥法師様が申されたことが御座いました。法澄様はそれを聞き、こう答えられたのです。
「『修験道』、良い響きに御座います。これからはそう名乗りますことに依存御座いません。」
「法澄様、また、修験道と云うのが山岳信仰の先達である華厳経や神道、花郎道の良い所取りをする神仏習合であることには依存ありませんが、それらとの差別化を図る為、何か格好だけでも個性的なものとすべきではないか、と思えるのです。」
「成程。修験道がただ現世利益をもたらす験力を使えることだけを目的として、祈る仏や神が同じでは、力の無き者には陰陽道や神道、仏教の中でも今唐で流行りの密教と何が違うのか分りませんからな。」
「そうそこで、法澄様が修行の時愛用していらっしゃる篠懸(すずかけ)、半袴(はんばかま)、結袈裟(ゆいげさ)、笈(おい)、錫(しゃく)杖(じょう)はそのままに、さらに景教の山岳修行に用いている装束を取り入れたらいかかでしょう。修験道等の呪術は、元々婆羅門教と仏教が合わさって作られた密教から来たと云われております。この密教は、大夏(たいか)(バクトリア)を通して伝わった拝火教呪術にさらに影響されて確立したのです。拝火教は一時迫害された時、以前波斯(はじ)に入り込んでいた景教に仮託して伝搬され、それ以来景教と拝火教は切っても切り離せぬ関係に有るからです。」
「ほう、それはどこにも無いものとなりましょうが、具体的にはどの様なものなのですか?」
「まず額には小箱を括りつけ、これを兜巾(ときん)と呼びまする。次に羊と云う獣の角を利用して笛とするのですが、日本にはその様な生き物はおりませんので、この地でも取れます法螺貝を、羊の角と似ておりますれば代用として使います。さらに九字を切る時、余りにも時間が掛かりますし、また経験の浅い者にはなかなか身に付けられないでしょうから、緊急時と初心者用に早九字と云うものを作り、それを景教の基本的な所作である十字を切るものと致します。」
「ほう、十字を切るとはどの様に?」
「では拙僧がやって見せまする。」
とこの様なお話し合いが為されたのです。
一方お付きの臥行者様、浄定行者様は、以前何度か襲われたことがあるとかで、二人交代で見張りをしておりました。しかし、見張りをしていない時は、都の中を何やら探索しているご様子なのです。私も李密翳から教わって、書物の中から医学に関するものを選んで勉強することと致しました。そして時々妻の梨花が尋ねて来て、街の様子等話してくれましたが、それはもうひどい状況で、これから冬になって流行病が下火になるだろうことが唯一の救いで御座いましょう。しかし、法澄様の術の習得は思った様に進まず、季節は
冬になり、開けて天平九(七三七)年、あの悲劇の年がついにやってきてしまったのです。
その年はまず元旦から、いよいよ玄ぼう法師様の祈祷と波斯医の李密翳の施術によって、相変わらず青衣(しょうえ)の宮子皇太夫人(こうたいぶにん)様の刺青を取り除くことと相成りました。この施術の欠点は、刺青をした顔の皮を取り除き、本人のお尻の皮をそこに張り付けて縫いつけても、その後に具合が悪くなって命を落とすことが多いことでした。そこで玄ぼう法師様の祈祷により、術後の悪化を防がなくてはならなかったのです。この施術の実行を寒くなるまで待ったのは、その方が悪化を防ぎやすかったからで御座います。刺青のある場所は、顔よりも胸の方が大きかったのですが、それは普段衣服で隠されている所ですから何もせず、顔だけに絞って施術することに致しました。とにかく私も李密翳の助手として立ち合い、施術は無事成功したので御座います。後は、玄ぼう法師様の祈祷の効力次第でした。本来なら誰かと交代で祈祷する所を、玄ぼう法師様は最低限の休息だけで、三日三晩祈祷し続けたので御座います。私は李密翳の施術の助手が終わると、今度は玄ぼう法師様の手助けに回り、途中食べ物や水を渡したりしたのでした。玄ぼう法師様の努力もあって皇太夫人様は順調に回復し、玄ぼう法師様も祈祷を休まれても症状の悪化は無いだろう、と云う所まで回復されたので御座います。
その年の四月、宮子皇太夫人様が回復し出した頃、まず第一の悲劇が起こったのです。つまり、藤原家の御次男房前(ふささき)様が疫病に冒されて亡くなれたので御座います。そして第二、第三の悲劇は、七月には四男の麻呂様、長男武智麻呂様が続けて疫病で亡くなられたことなのでした。そんな時、宇合様より自分の元に急ぎ来て欲しいとの連絡があったので御座います。私は、第四の悲劇を予感しながら梨花を伴って急ぎ駆けつけ、門番に取り次ぎを頼んだのでした。すると、門まで三男の清成様と五男の綱手様が出て来て、宇合様の居る建物の前まで案内してくれ、入口の前で、
「父上、秦忌寸朝元様が見えられましたよ。」
と戸の外から声を掛けられました。すると部屋の中から、
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊