一縷の望(秦氏遣唐使物語)
ところでこの宮子皇太夫人様のことで御座いますが、良い機会かと思われますので、ここでその正体を明かしておきたく存じます。皇太夫人様のことを我ら仲間内で「宮」と気楽に呼ぶのは、元々かの女(ひと)は我ら秦一族から分れた宗像(むなかた)の血を引き、白鳳八(西暦六七九)年と言いますからまだ私の生まれる前のお話ですが、紀伊の九海人の里に住む村の長であった早鷹様と渚様と云う漁民の夫婦の娘だったからなので御座います。宮様はその当時から青い汗衫(かざみ)を来て海女を生業(なりわい)にしておりました。それは生まれつき体毛が一本も無く、いくら顔立ちが良くても、女性の美しさに髪は欠かせないものですから、それを汗衫と頭に布を巻いて隠していたのです。母親の渚様は、そのことを思っては嘆き悲しんでおりました。我ら一味の長である義淵法師様は生家が大和の国であることもあり、たまたまこの仲間の里を尋ねた時、その「宮」と云う赤子の話を聞き、興味を以ってその赤子と対面したのです。そして、その赤子にただならぬ気を感じた法師様は一計を案じられて、自ら作らせた黄金の十一面観音像を九海人の里の海の浅瀬に密かに沈めたのです。翌日漁民達は、海に輝く物があって魚が寄りつかないと嘆いて、得意の素潜りで皆で沈められた十一面観音像を浜に引き上げたのでした。簡単にお堂も作ってそれを村の鎮守としたのですが、案の定、宮様の母親である渚様がその観音様に、娘の髪がどうぞ伸びますようにと祈願したので御座います。義淵法師様はその様子を下の者に確かめさせると、家の外で夜密かに無言で祈祷され、見事娘の髪を長く伸ばさせたのでした。一度伸び出した髪は勢い良く長くなり、今度は逆に「髪長姫」と評判になったので御座います。
お知り合いの紀麻呂様が、ちょうどそこに紀道成(きのどうじょう)と偽名を使ってお忍びで通りかかったのでした。その地で「髪長姫」の評判を聞いてやはり興味を持ち、宮様を一目見るなり気にいって、贈物を積んで引き取って養女としてしまったのです。そして、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった藤原不比等様のお屋敷に、采女(下女)として献上してしまったのでした。もちろん、その時もう文身(刺青)はしてあったのですが、采女ならば良いだろうと
思ったそうに御座います。ところが、宮様のあまりの美しさに目を付けた不比等様は、当時の陛下(文武天皇)に、自分の娘として采女に差し上げてしまわれたので御座います。文身のことは、白粉(おしろい)を付けておりましたから一部の者しか知らぬことでしたが、陛下のお手がつき、首(おびと)皇子(後の聖武天皇)様をお産みになった時は、陛下もそのことはご存知でいらっしゃいました。この首皇子様の皇后となられるのが、宮様の義理の妹である後の光明皇后陛下なのです。この様な近親婚は、比較的それに対し大らかであったこの時代においても、古事記に戒められている様に、当時の人々特に藤原氏の方々にとっても、出来れば避けたいことではありました。しかし宮様は、この様に藤原とは何の血縁もありませんので、遠慮無く縁談を勧められたかと思われます。
大宝元(七〇一)年、夫である故文武天皇陛下は宮様の実家である紀伊へ行幸になり、宮様のご両親とも対面して、件(くだん)の十一面観音を本尊とした寺を建立することと致しました。その寺の名は、紀麻呂様の偽名から取って「道成寺」としたので御座います。ただ、刺青のある母であることを皇子が知ったら嘆くだろう、と宮様は皇子とは一度も対面なさらず部屋に籠ってしまわれたのでした。因みに、宮様を見出した義淵法師様は僧正にまで出世なされ、御褒美も沢山頂き、紀麻呂様も不比等様のお蔭で随分出世なされたそうです。しかし義淵僧正様は自らの死期をお悟りになると、宮様のことをお弟子である行基法師様にお託しになられたのでした。
さて話を先に進めましょう。朝廷への帰還の挨拶も済み、私(秦朝元)は他の方々と別れて自宅のある葛野(かどの)へもう暖かくなる頃帰ってくると、梨花と娘達が出迎えてくれました。私の守り役である国栖赤檮(くずのいちい)と国栖調子(ちょうし)麻呂(まろ)の二人も来ていて、全員で私の帰りを祝ってくれたので御座います。しかし、さっそく鶻(こつ)(隼)を肩に乗せた調子麻呂が言い難そうにこう報告致しました。
「実は本家の方で大変なことが御座いました。牛麻呂様がご病気で、しかも重体なので御座います。」
「何、牛麻呂様が。何の病だ。」
「はい、御主人様(朝元のこと)を迎え方々難波の方まで出て参ったので御座いますが、帰って来たらもういけません。どうやら筑紫より広まった流行病の様で、皆は豌豆(えんどう)瘡(そう)(天然痘)と呼んでおります。」
「ぐっ、ここでも同じ病か。まさか我らが運んだのではあるまいな。私は梨花と共にこれから牛麻呂様の舘へ馬で行ってくるが、皆はうつる故来ては成らぬぞ。良いか。」
「父上はうつらぬので御座いますか?」
と二人の娘が声を揃えて心配そうに言ったのに対し、私は諭す様にこう答えたのでした。
「私は医者故いかなる病と云えども恐れてはおれぬ。ましてや大恩ある牛麻呂様の一大事に駆けつけずにはおられようか。」
「向こうの家もさぞ助かるでしょう。実は薬師(くすし)も、患者を一目見るなり逃げ出してしまわれたのです。看病はもっぱら今まで梨花様がやってこられました。」
「そうか。後でゆっくり話すが、実は唐にいる父上と母上と兄上も、この病で亡くなられていたのだ。この上牛麻呂様まで目の前で亡くなられるかと思うと、私には耐えきれぬ。梨花参るぞ。」
「はい、梨花は、牛麻呂様のお世話が出来て嬉しゅう御座いました。醜い顔になってまで生き延びた甲斐があったというもので御座います。今お供致します。準備は向こうの舘に
揃っております。さあ、馬も来ました。行きましょう。」
二人は牛麻呂様の太(うず)秦(まさ)の舘に着きましたが、牛麻呂様の臥せる舘には梨花以外は絶対入れてくれませんでした。そして牛麻呂様は梨花に用件を呟き、それを戸の向こうにいる私に梨花が大声で伝えると云うやり方で、以下の様な会話を致しました。
「わてがここで頑張れば、家族の者全員がこの病に罹ってしまいなはる。わてはたった今自害します。わてが死んだら、この建物ごと燃やしておくれやす。そして朝元さん、最期の願いでおま。わての秦一族の束ねをあんたはんに頼みたいんや。引き受けてくれまっしゃろな。」
「牛麻呂様、中に入れて下され。牛麻呂様に事前に伝えられていました通り、唐へ行ったら父も母も、兄までも同じ病で失っていました。この上牛麻呂様まで失ったら、私はどうすれば宜しいのですか?」
「朝元さん、強くなるのどす。この病はまだまだ続きはる。まだ人が死にまっしゃろ。医者のあんたはんが嘆いていてどないする? この流行り病を払えるのはこの国でただ一人、噂に聞く法澄 (後の泰(たい)澄(ちょう)大和尚(だいおしょう))さんしかいてません。朝元さん、今すぐ白山へ行基法師さん達と行きなはれ。行基法師さんなら法澄さんの居場所をご存知の筈でっしゃろ。急ぐんや。それから嶋麻呂の、嶋麻呂のことを頼んます。梨花さん、もうえぇ。下がるんや。うっ。」
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊