一縷の望(秦氏遣唐使物語)
私は藻が見つからないと分って、安心する所か何かもっとひどいことが起こりそうな気がして、何だかぞっと致しました。ふと横を見ると、真備様もまた、藻を取り逃がした口惜しさを諦めきれず、海よりも青い顔をして佇んでいたのです。この時藻を見失ったことが、この後に恐ろしい結果を生むこととなるので御座いました。
久しぶりの宮中では、どことなく頼りない陛下に対して堂々とした、藤原の血を引く光明皇后(かつての安宿媛(あすかべひめ)、光明夫人(ぶにん))陛下の噂で持ち切りで御座いました。その母上の橘三千代様は、私どもに意を通ずる葛城王改め橘諸兄(たちばなもろえ)様の母でもあらせられました。亡き右大臣(藤原不比等)様と再婚して、生まれたのが光明皇后陛下で御座います。ですから臣下の者が皇后となったもので、神代の時まで遡らねば例の無きことに御座いました。先にもお話しました通り、例の長屋親王の変も、かの親王様がこれに異を唱えたことが原因と言われております。とにかくその死を切っ掛けに立后された光明皇后陛下のお蔭で、藤原宇合様を始めとする男の御兄弟達も、御長男の藤原武智麻呂様(南家の祖)は大納言、次男の房前様(北家の祖)、三男の宇合様(式家の祖)、四男の麻呂様(京家の祖)も参議となられ、まさに藤原氏全盛の時代を迎えたのでした。それだけでなく光明皇后陛下はま
るで行基法師様達に対抗するかの様に、自分がかつて安宿媛様と申しし時から、菩提寺の興福寺に設けた悲田院をこの頃都の東西に作りなされ、貧しき者のため施しをなされていたので御座います。またこんな噂も広められました。光明皇后陛下がやはり設けなされた法華滅罪寺(元藤原不比等様の館の一部)で、千人の民の汚れを自ら拭う、と云う願を立てられたことがあったのですが、ちょうど千人目の者が全身重症の白癩(しらはたけ)(ハンセン氏病)に冒された者であったそうで御座います。その上その者は、自分の身体に有る膿を口で吸い取って欲しいと懇願するのですが、誰もそんなことをしようとする者はいません。その時光明皇后陛下が、願掛けのこともあり、
「私がやります。」
と前に進み出たのでした。周りの者が止めるのも聞かず、光明皇后陛下がその病人の身体の膿を自らの口で吸い取りなさると、その病人が「阿?(あしゅく)如来(にょらい)」に変じた、と言うお話ですが、これは仏陀の説話から出たものと思われます。そうした伝説だけでなく、都大路に植える並木に桃や梨を植え、貧者が食べられる様にしたとか、東大寺や国分寺の建立を陛下(聖武天皇)に勧められたとか、実話と思われる様々な逸話も残されているのです。冒頭の歌は、その光明皇后陛下の作で御座います。歌の意味は、皇后陛下が山科寺(後の藤原家の氏寺興福寺)に参拝した時、「三十二相の姿を備えた昔の人(お釈迦様)がお踏みになった跡が、この足跡なのですねえ。」と詠んだというものです。光明皇后陛下の足跡を追った後にこの歌を読み返すと、また一段と歌の格調が高まるかと存じます。
これらの慈悲深い行為の数々は、当初は権力を独占して回りの者から妬まれていた藤原一族の評判を上げる為に行ったことだったのでしょうが、あの悲劇があってからは、長屋親王様の怨霊を鎮める為だったとしか思われません。その悲劇については、この後にお話しすると致しましょう。
ですがその前に宮様、つまり青衣(しょうえ)の宮子皇太夫人様についてお話しておかなれればなりません。何故なら光明皇后陛下の一連の行動は、全て義理の姉の宮子皇太夫人様に感化されてのことだったからで御座います。宮様は光明皇后陛下の権力、父親譲りの財力、実行力に目をお付けになったのでしょう。宮様が皇后宮に籠るようになってから、時間の許す限り、光明皇后陛下は皇后になられる前から宮様の元へ足を運んでおりました。気の病と称して臥せっていることになっている宮様ですから、異母妹の光明皇后陛下との語らいが何よりの慰めとなっていると、周囲の者は思っていたかもしれません。しかし宮様は、これを光明皇后陛下を自分達の味方に引き入れる良い機会と考えられたので御座います。気の強い皇后陛下も、仏様の話を引き合いになされて語られる宮様の様々な話を、最初は看病の一つだとお思いになってお聞きだったのかもしれませんが、後には自ら熱心にお聞きになる様になったそうで御座います。例えば、宮様が有難い聖徳太子様のお話をし、こう光明皇后陛下に話す訳です。
「太子様は四天王寺に悲田院や施薬院をお作りなり、多くの貧しい人達を救ったわ。まる
で現在の行基法師様の様にね。私達藤原も、自分達だけの栄華を楽しんでいて良いのかしら。その分他人からは妬まれている筈だわ。それを回避する為にも、悲田院や施薬院を作るべきだと思うの。」
皇后陛下は勝気な方ですから、宮様の話が余計に身に沁みて理解できる訳でした。あるいは、
「お釈迦様は、病人の膿を口で吸って癒されたそうよ。もしも藤原家の誰かがそれを出来たら、それはもう行基様以上に持て囃されるでしょうね。」
と言ったりもしました。そして、行基法師様のお弟子の延宝法師様が変化をして、その白癩の病人に化けて、ちょうど光明皇后陛下のいる頃を見計らって法華滅罪寺に向かったのです。周りにいる者も全て行基法師様の信者で固められていたので、ちょうど千人目になることも容易で御座いました。後は皇后陛下次第です。こちらの意図通りに皇后陛下が膿をその口でお吸いになられましたので、再び延宝法師様得意の変化の術を使い、「阿?如来」らしい格好になられたので御座います。
その後、奈良の都の大路の並木を桃や梨にしたのも、宮様の示唆に皇后陛下が乗せられたからに他なりません。いわゆる東大寺、国分寺の建設を皇后陛下が陛下に薦められたのも、宮様からの影響でした。寺をたくさん作ることは、我が秦一族の住処や仕事が増えることを意味していたからで御座います。我ら秦一族は寺や神社の建設、雑事、武装をも担っていましたので、寺が増えることは単純に有難いことなのでした。因みにこの東大寺の建立を陛下がしている時、皇后陛下はそれと同じ規模の新薬師寺を建てられていたのです。薬師如来様は、祈れば現世において立ち所に救われると云うみ仏に御座います。皇后陛下の人生は民を現世において救おうと云う活動であり、まさに相応しき寺であるかと思われます。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊