一縷の望(秦氏遣唐使物語)
「さあ、どっちだ?」
私は、少し考えてから迷わずこう言ったのでした。
「白で御座います。」
突き出された宇合様の太い右腕の先が、ゆっくり開かれました。その手の平の中には、白い石が月明かりに一つ光っていました。
「ははは、お主には運まで味方している。大したものだ。」
「いや、恐れ入ります。正直、これ以上飲まされたらどうなるものかと思っていました。」
「そのことじゃがの。」
宇合様はお酔いになりながらも、先程とは少し違った声色で、出来るだけ相手に真面目に聞こえる様言い始めました。
「私はお主が気に入った。私は今お主に賭けてみたのだ。こここで酒を一杯飲むのは容易いことだが、それではつまらぬ。今運も味方にしたお主は、きっと日本国で名を挙げよう。そこでじゃ。お主も妻帯しておるが、私にも妻がいて、二人の息子(広嗣・宿奈麻呂(すくなまろ))もおる。だが、日本国に帰ってさらに男の子が授かり、その上さらにお主達夫婦に娘が授かったなら、二人を見合わせ、両家の血を繋ごうではないか、つまり、酒令に負けて未来の息子をやろうというのだ、どうだ。」
「願っても無いことですが、私の様な者がその様なこと、身に余りはしませぬか?」
「なに構わぬ。どうだ、三人で約束の印に平瓶を飲み干そうではないか? ここには唐の酒しかないが、唐人のお主ら二人と交わす約束には相応しかろう。」
「有難う御座います。さ、梨花も平瓶を取りなさい。」
梨花は、唐での蛮行(後述)が現実のものと信じられぬ程可憐な声で一言、
「はい。」
と言って宇合様からの酒を平瓶に受け、宇合様御自身は自らの器に酒を並々と注ぎ、三人は一気に飲み干したのでした。この一杯の平瓶の契りが、やがて秦一族の宿願の一縷の望となろうとは、まだ夢にも思わぬ二人なのです。宇合様もまた、ぐっと一気に飲み干してから思わず大きな声で呟いたのでした。
「いやーうまい。それにしても、もう阿児奈波(あこなわ)(沖縄)の島々の灯が見える頃じゃがのう。」
遣唐使の旅にしては驚く程穏やかな海の上を、四つの船は季節風に乗って突き進みます。私が平瓶を飲み干して再び眠りに就く前に、丑寅(北東)の夜空を見上げると、馬車の星座(カシオペアザ座)の傍を一筋の天狗(流れ星)が通り過ぎました。
「天狗だ、我ら秦氏の星だ、これもまた吉兆に違いない。」
私はそう呟くと横に居る妻の髪が、月明りに炯々と輝くのを見ながら再び意識を失い、今度は夢も見ずに朝までぐっすりと眠りこけたのでしたが、この時のことは、今でもはっきりと頭の隅に残っているので御座います。
第二章 白山
み雪降る越(こし)の大山(おおやま)行き過ぎていづれの日にかわが里を見む (詠み人知らず、万葉集所収)
聞いた話によりますと、天武十一(西暦六八二)年六月十一日、越前国麻生津で海を使った商いをしておりました三神安(みかみやす)角(ずみ)様と言う秦氏の者の次男として、阿牟公(あむこう)人足(ひとたり)様はお生まれになられました。この時、母親の伊野様が白い玉をお抱きになった夢を見て、さらに誕生のその日には、もう夏だと言うのに白い雪が降った、と聞き及んでおります。実はこのご両親共に異国の血が流れていたのでした。その関係で人足様は生まれ付き赤ら顔の上、両目は蜻蛉玉の様に大きく鼻は見たことも無い程高い所謂鷲鼻だったのです。幼い時から変わった子で、五、六歳の時、泥で仏像を作り、草木で堂塔を建て、他の子が遊びに誘ってもただ手を合わせて礼拝ばかりしていたのでした。持統七(六九三)年人足様十二歳の時、唐から帰られた道昭和尚様が修行の旅の途中でこの地を訪れ、三神安角様のあばら家に泊まられた時、たまたま祈っている人足様を見掛けられたのでした。因みに道昭和尚様とは法相宗の僧で、唐にいらしたことのある和尚様はあの玄奘三蔵様の日本における直弟子となります。つまり法相宗とは、玄奘様の宗派となるのでした。その道昭様が例によって祈っている人足様をご覧になると、その頭に丸い光が掛かり、天蓋が見えたのでした。そこで道昭和尚様は安角様にこう告げられたのです。
「この子は神童で御座います。長じて大事をなされるでしょうから、ゆめゆめ粗略に扱われませぬように。」
この子の話は、この道昭和尚様のお弟子の行基法師様を通じて、我らの束ねの元興(がんごう)寺の義淵僧正様の知る所となったので御座いました。義淵僧正様は、当代随一の権力者あの右大臣藤原不比等様に熱く庇護されている方なのです。ですからその僧としての権勢は、他に比類無きものなのでした。
そして十四歳の時、夢に出てきた謎の僧に、
「私はそなたの師(義淵僧正)である。そなたは僧形となって十一面観音の徳を施せ。」
と言われ、その年の冬から夜な夜な外出し、越智山の坂本の岩屋でこう百編唱えられたのです。
「南無、十一面観世音神変不思議。」
そして岩屋を出て山に登られるのでした。こうして修行を重ねられた後、人足様は自ら髪を剃って僧形となり、名も法澄と変えられたのです。法澄様は中肉ですが抜きんでて背が高く、髭を綺麗に手入れされ、異相でありながら大きな優しい眼の柔和な方でした(ちょうど現在の天狗と似ている)。
二一歳の時、その霊験灼(あら)たかなることが朝廷にまで知れ渡り、時の陛下の文武天皇から伴安麻呂(大伴家持の祖父)と云う勅使が訪れたのです。その勅使の云うことには、
「御坊を鎮護国家の法師に任ず。」
と云うことで御座いました。この年、異形の少年がそのことを知り、能登より法澄様の元に御弟子になりに来られたのです。その少年の名を臥行者(ふせぎょうじゃ)と言い、法澄様同様に剃髪でいらっしゃいました。またかの行者様は法澄様程では無いのですが、背が高く立派な顎髭を蓄え、眼光鋭くいつも苦虫を噛み潰した様な顔をして、宗教者と云うよりは武人と云った佇まいでいらっしゃいました。法澄様は臥行者様を見るなり、
「宿縁が有って、今ようやく拙僧の元に来られましたね。お前に給仕してもらおうと、ずっと待っておりましたのに。」
と仰って、その言葉通り、かの方は鉄鉢を持って托鉢して回られ、自分の食い扶持を求める一方、法澄様の身の回りの世話をなされたのです。
この臥行者様の俗世での名は本人が名乗らなかったので分かりませんが、その法名の由来は明らかでした。かの行者様は修行の時、越智山に降り積もる雪に臥して修行をしていたから、それが分かったのです。たまたま通りかかった他の修験僧がその様子を見て、いささか呆れ顔でこう言ったのでした。
「行者様。その臥せっている姿は、どう見ても修行を怠けているようにしか見えませぬぞ。それでどうして行者と名乗れるのですか。」
すると臥行者様は雪に臥せったままこう答えられたのです。
「拙僧は冷たい雪に身体を臥せ、その冷たさに耐える心を鍛えているので御座います。この苦行によって本学曼荼羅菩提心(人が本来持っている悟りを得る為の知恵によって悟りを開きたいと願う心)が自ずと湧き起こり、それに呼応して仏教の心が日々増えていくのです。どうしてこれを怠けている等と仰るのですか。」
その修行僧はこの言葉に感動し、土下座してこう言って謝ったのでした。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊