一縷の望(秦氏遣唐使物語)
ふと気付くと、後ろに私に倭の言葉を教えてくれたかつての侍女、今は私の連れ合いとなった唐人の娘「梨花」が控えていました。彼女は倭国の生まれでしたが、私とは逆に秦氏の一員として唐に来て、倭の情報を伝え、そのまま唐の我が家の侍女として過ごしていたので御座います。月明かりでもはっきり分かるのですが、彼女は顔一面痘痕(あばた)だらけで、後ろに束ねられた髪は月明りを反射して輝き、銀色と見まごうばかりの真っ白でありました。実は倭へ帰らなかった理由は、この痘痕と白髪の原因となる流行病にかかってしまったからなのです。ただ体力があったのか命拾いをして、病に打ち勝ったので御座いました。しかし彼女の顔の痘痕は、彼女の美しかった顔に醜く残され、見事な黒髪は一夜にして真っ白になってしまったのです。私は彼女の見目容(みめかたち)ではなく、何となく気が合って将来を誓いあう間柄にまでなったのですが、彼女の病が癒える代わりに醜い痘痕が残っても、私達は一緒になり、共に倭へと旅立つこととしたのでした。なお白髪は普段は墨で染めているのですが、長旅の所為でいつしか色落ちしてしまったのです。実を言うと、彼女の自分の容貌への負い目は深く残り、夫婦でありながらどこか主従の様な関係から抜けきれぬのでした。その彼女のよそよそしさに、私は密かに胸を痛めていたのです。彼女は倭から来た女と言っても胡人でしたので、倭人や唐人では見かけぬ程彫が深く大きな目をしていましたが、痘痕の下にその美しさは深く隠されたままでありました。彼女は私と同じ装束を着けていて、白髪は無造作に頭の後ろで束ねております。ところで彼女は先程の宇合様の言われたことに黙って頷き、静かに二人の輪に入って私達に酌を始めました。
「これは済まぬ。唐では私の名前の吉凶を占って頂き、忝く御座った。あのまま副使の御用を務めていれば、唐人どもに侮られる所であったわ。」
宇合様は倭にいた頃、馬養という字を名前に当ててられていらっしゃいましたが、私達が下道真(しもつみちまき)備(び)(後の吉備真備(きびのまきび))様から馬養様を紹介された時、まだ子供で遠慮のない振りをした梨花が、「馬養」と云う字が唐では下賎の者に使われるものだと言い出しまして、字を占う術にも長けている彼女が、急遽その場で名の字を考えることとしたと言うことがあったのでした。しかし実はこれは、予め私と梨花で仕組んでおいたことで、私が宇合様に接近して、私達二人を帰りの遣唐使船に乗せさせる為に恩を売る芝居だったのです。もちろん、宇合様はそんことはご存知ありません。そもそも「馬養」とか「蝦夷」と云う奇妙な名が当時の倭で好まれたのは、馬や牛と云った獣、あるいは蝦夷と云う民の力を霊的なものと考え、それを自らの名としてその字の持つ力にあやかろうとしたものなのでした。しかしこれは当時の倭でのみ通じる話で、唐でも同じことが言える訳ではありません。梨花はそこの所を利用して、馬養様の心を操ったのでした。唐で初めて会った時と違い、航海している内に妻の髪が白くなっても、宇合様は少しも気にしていない振りをなさっている様です。
「それにしてもお主(ぬし)、下道真備や仲麻呂達と親しい様であったが、何を受け取っておったのだ?」
「はい、父の倭での知り合いと言う太(うず)秦(まさ)の秦公よりの文(ふみ)をいただいておりました。」
「ふーん、してそれには何と。」
「私が今度倭に行き、そこに永住することを伝えてありましたので、その返事として、有難いことに倭には安心して渡って来られよ、と言うことが書いてありました。」
「ほう、太秦の秦公は早耳じゃの。あぁそれから先程から気になっておったのだが、お主もこれから日本に行こうとしているのだから、その『倭』と言う癖は直しておいた方が良いな。それに『倭』には、唐人から見て我らを侮辱する意味もあるらしい。お主ももう唐人では無いのだから、これからは意識して『日本』と呼ぶ様にするのだ。少なくとも我らはそうしておる。それが国を思うと云うことの第一歩だと思うのだがな。」
と宇合様は、まるで実の兄の如く優しく諭されました。私は少し顔を紅くしながら、
「分かりました。御助言、有り難く承りました。今後気を付けたいと思います。」
と言ったのです。その一方、私はこんなことを考えておりました。宇合様は何の疑いもなくこの話をお聞きの様でしたが、実際、下道真備様と傍らにいた阿倍仲麻呂様より受け取った、太秦の秦公からの預かり物はそれだけでは無かったのです。その一部は、日本でこの度編纂されたと言う「古事記(ふることぶみ)」と、もうすぐ脱稿される「日本書紀」の草稿なのでした。これらには一族にしか分らない伝説を盛り込み、一族が遠き日本で健在であることを唐にいる我ら秦一族とその同士達に密かに示す為のものなのです。また、下道真備様や玄ぼう法師様や阿倍仲麻呂様、審祥法師様と言った留学生(るがくしょう)などを現地で世話する者、つまり私の父や唐僧道?(せん)様、林邑(りんゆう)国(今のベトナム)僧仏哲様を紹介していました。また詳しくは後に語らせて頂きますが、その文は私にばかりではなく、他の者に対する別の知らせも入っていたのです。
「そう言えばお主。先程を起こしてしまった時、何やら夢を見ていた様だが、どんな夢だったのだ?」
「はい、普段なら夢など覚めてしまえば忘れてしまうのですが、唐にいる時分よりこう何回も同じ夢を見ていると、未だにはっきりとその内容を覚えてしまっております。」
「ほう。」
と言って、宇合様は平瓶を口に当てておりました。
「夢の中に、何やら黒い影が私の前に立ちふさがるのです。いくらその顔が誰なのか見定めようとしても、黒い影にしか見えず、今考えてみると、それは私が知らない人の様なのです。私がその黒い影をそうして見つめていると、突然その影がこう話し出したので御座います。『朝元よ、朝元。何をしておる。早く日本に戻って我が一族の宿願を果たせ。』とね。夢はいつもそこで終わり、目が覚めるので御座いますよ。」
「ほう、その影はもしかしたら、お主達秦一族の大成者、秦河勝様ではあるまいかの。」
「それは気がつきませんでした。そう言われれば、父より伺っていた河勝様の風貌そっくりです。しかし、河勝様は倭いや日本へ私を呼び寄せて何をせよと言うのでしょう?」
「そこまでは分らぬがな。ところでお主、どうせ飲むなら唐で流行っている酒令でも致さぬか?」
宇合様はもう夢の話に飽きたらしく、話題をお変えになりました。
「申し訳御座いませんが、酒令とは何で御座いましょう?」
「ははは、唐生まれの者に酒令を教えようとは思わなんだ。良いか、酒令とはな、別に何でも良いのだが、何かの勝負をして負けた方が酒を飲むというもんだ、どうだ、分ったか?」
「はい、それで何の勝負をなさいますか?」
「そうじゃの。ここはだいぶ揺れるから、やれることは限られるな。そうだ、私がお主に貰った碁石を握るから、この右手に握ったのが白か黒か当てるというのはどうかね。」
宇合様はそう言うと、白と黒の碁石を一つずつ手に取り、腕を後ろに回し、しばし少しごそごそと手を背中で動かしてから右の手を前に突き出したのでした。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊